渋谷/藤原新也

渋谷

渋谷

読んだ動機が綾野君なんでaynGoカテゴリに入れてますけど、感想として綾野君はあんま関係ないです。
えーそろそろ公開になる綾野君主演映画の原作ってことで購入しました。内容は筆者が取材した3人の女の子との対話の記録……と言っちゃうのも違う気はするけど。
自分が長く関わった“熱心すぎる音楽ファン”というコミュニティはわりと病んだ人の巣窟で、その人の本質的なマトモさにどんなお宅に育ったかという要素は外せないなあ、というのはけっこう実感としてあることだったんでここに書いてあるようなことは一応理解共感できるんですが、こんなんで分かった気になられても、と思ってしまうのは、藤原新也よりは登場する女の子の視点でものを考えてしまうせいだとは思うんだけど。
他人にものを話す時って自分を理解して欲しいからなのは当然だけど、理解してほしいのは自分の寂しさとかそういうものだけだったりとかして、結局そういう“理解してほしい部分”だけを分かってあげるのがこういう対話の円満な帰結だったりはするのかなあとは思います。
けど、実際にはみんなそういう“可哀想なオンナノコ”の部分だけでできてるわけじゃなくって、例えば風俗の女の子だって10人いれば10人分の動機があるなんてのは当たり前の認識だろうけど、実は10人分どころかその子の生きてる日数分の理由付けがあるんだと思うんだよね。まあそんなものを他人に理解してもらう必要があるかといえばはなしは別ですが。
なんかそういうところで、デリヘルの女の子とはなしした後帰っていく後ろ姿を見て自分のしたことが怖くなったという+act.の綾野君のはなしを思い出すと妙に安心するなあ、というのはまた別のはなし。でも藤原新也にしても綾野君にしても、こういう女の子のはなしに共鳴しちゃうのって、気持ちの中に“可哀想なオンナノコ”がいるからなんだろうなあとは思った。自分の存在へのひっかかりとかそういうものって持ったまま生きてる人って別に少なくないと思うけど、そういうのをこういう女の子たちの物語として解釈する気持ち自体は、それはそれで分かる気はする……と思う。