ザンキさんと吾郎ちゃん

仮面ライダー龍騎 Vol.12 [DVD]

仮面ライダー龍騎 Vol.12 [DVD]

昨日「仮面ライダー龍騎」のVol.11と12見てたんですよ。で、思ったのがこの2人ポジションが似てるなあ、と。
2人とも主要キャラを立てるために用意されたキャラだという点もですが、Vol.11辺りのミラーワールドと優衣の関係が分かってきて真司が悩む辺りになると、吾郎ちゃんのポジションがしょーもないったらないんですよ。いや、北岡の病状が悪化して動揺する辺りは良いんですが、北岡事務所のクリスマスディスプレイ辺りになるとねえ。
で。このしょーもなさって、響鬼中盤、トドのサポートについてた頃のザンキさんに通じるものがあるなあ、と。

ザンキさんも吾郎ちゃんも中の人は雰囲気のあるハンサムだし、相方との会話自体がププッとなる小ネタでおいしいし、登場シーンは待っていたんですよ。特に龍騎に関しては私は花鶏メンバーの性格がどーにもウザくてうっとおしかったから(あのキャラクターだからストーリーがあれだけ面白く動いたのは分かっった上で、人間的な好みはどうしようもない)、吾郎ちゃんと先生が視聴継続のモチベーションってとこあったし。
でも龍騎終盤で真司が自我崩壊の危機を迎えるほど悩んでる「戦わなければ生き残れない」世界で、吾郎ちゃん自身が言うように「見ていることしかできない」吾郎ちゃんの出番って、北岡事務所の高いレンタル料払ってまで作るようなもんかなあ、って。あ。朝倉が事務所を襲撃するシーンとか、吾郎ちゃんが朝倉をひき殺そうとするシーンは別ね。それだって本筋からずれてるから、ほんとに必要かというと微妙なんだけど。存在意義を認められるのは、メグミちゃんに「心配なくせに」と言われるシーンでギリギリかな。正直吾郎ちゃん自体が北岡事務所のオブジェに見えたシーンも多かった。
でも存在意義のなさでは響鬼中盤のザンキさんの方がすごかったからなあ。仕事してないことは弦師弟のファンにすら突っ込まれていたし。変身せず生身で怪童子や妖姫と渡り合う様はファンとしてはおいしかったけど、生身でそれだけやれるのならなんで引退したんだと思われるのは仕方ないさw。
まあ吾郎ちゃんは北岡先生の、ザンキさんはトドのキャラを立てるために用意されたキャラで、初っ端からキャラ立ちまくって吾郎ちゃんの存在意義が薄れた先生に比べて、ザンキさんは最後までその任をまっとうしてたけどね。そのせいで「ザンキさん関連以外のトドの存在意義ってなんだろう」と思っちゃったのはあるけど。

嫌になっても辞めるわけにいかない龍騎世界のライダーと違って鬼は仕事でいつでも辞められるし、さほど手こずることもなく倒せる「響鬼」の世界でなら、「衰えたから」という理由のザンキさんの引退は「有り」だったと思う。全盛時と同じだけの力が出せないからと潔く身を退く姿自体はかっこ良かったし。
でもそれだからこそ、ザンキさんは番組に出続けちゃいけなかったんだよ。活躍の場が与えられれば与えられるほど、辞めたこと自体が軽はずみに見える。個人的にはザンキさんが鬼を辞めたのは「絶対に魔化魍を里に下ろしてはならない」という意味で、犠牲になった人を悼む表現なのだと脳内補完してたんだけど。

影が薄くなった時期があるとはいえ吾郎ちゃんの存在意義は最終回のあれでおつりが来るくらいあったし、薄くなった時期があってもあの展開に違和感がなかったのは、さほどそういうエピソードが描かれたわけでもないのに吾郎ちゃんと先生に深いつながりがあることを感じさせる演技をしていた弓削君と涼平ちゃんの功績だ。龍騎の終盤は神崎士郎のあせりを反映するかのように駆け足で吾郎ちゃんのあれも「これだけかよ!」という感はあったが、龍騎の世界には北岡事務所以外にも描くべきネタが山ほどあったからしょうがない。事務所関連の井上氏のインタビューで「吾郎と北岡の出会いのエピは、書こうかと思ったけど野暮だからやめた」という発言があったけど、最終回のあれは、あれだけだから粋だったのは確かだ。

響鬼の終盤が「仮面ライダー斬鬼」になっていたのはそういう意味で野暮だと思うし、好きなキャラを使ってそういう野暮なことをして欲しくなかったという気持ちは確かにある。
ただ最後までしょうもないまま終わるよりは、放送された展開の方が100倍良かったと私は思うよ。吾郎ちゃんもザンキさんもいわば死に花を咲かせたのだし、戦う人々を描くはなしで戦わない傍観者は理屈じゃなく格下だ。ステージに上ってないんだから。
終盤の脚本を作る時に松田さんのザンキさんがドラマ性のある存在だと思われたってことは、ファンとしてすごいうれしいしね。