下北サンデーズのいやなとこ

僕はほぼ10日間の間ずっと考えていた。
僕の価値観と下北サンデーズについて。

……と、年のばれそうなベタベタのネタではじめてみましたが、先日黒猫亭さんにサンデーズのネタでTBいただき人様から指摘されることで分かったこともあるものの、それに触れることは終わってしまった番組を憶測で批判することになるからどうしたものかと二の足を踏んでたんですが、やはり放置はどうにもキモチワルイというわけで、改変期でドラマの放送もないしちょっとだけ。
でも制作側の談話とか一切見てないのでこれは私の印象だし、だから「ダメなとこ」じゃなくて「いやなとこ」だと踏まえた上で、あの番組に不満のない方は見ないでお帰りください。
このブログでとり上げる番組は基本的にはそれなりに制作側の意気に感じる、とかそういう制作者側のモチを感じる番組ですので制作側の態度に感じる不快を批判の理由にすることはありません。制作側のモチが感じられないことで批判的になってたというなら「夜王」の感想辺りは今にして思えばそうだな、と、むしろ反省すべきかと思ってますがw。
そういう意味で石垣佑磨が出ていようとネタが小劇場演劇だろうと、これが「上戸彩のドラマ」である時点で私はこのドラマのオキャクサンじゃないんだと思ってたから、見ていても感想をあげようとは思わなかったわけです。
それが4話の、ある意味吉行和子に見せ場をさらわれた回があったことで私もこのドラマのオキャクサンなのかと思ったんですね。

黒猫亭さんとのコメント欄のやりとりで“アイドルドラマ”という言葉を使ってますが、人気者をおいしく見せることで視聴率をとるそうしたドラマを私は否定的に見ていません。主人公を魅力的に見せることは連続ドラマでは最優先事項だし、むしろそれができていないドラマは手放しでほめられたものではないというのは前にも書いた通りです。
ただそういうドラマはえてして主人公を持ち上げるために他の要素を蔑ろにする傾向があって、それを下手にやるとどうにも安いドラマに見えるのは確かだし、視聴モチが主人公の役者でない人間にとっては、モチを蔑ろにされて楽しいわけがありません。
もっとも主人公に納得できなければ魅力的に見えるわけもないわけで、よくできたアイドルドラマはドラマとしてもよくできてるんですけどね。
今期で言えばマイボス辺りは長瀬のアイドルドラマ以外のなにものでもないと思います。

別に演劇人に思い入れがなくても、4話は普通にできの良いはなしだったのですよ。あのはなしで一番良かったのは吉行さんで、それがあるからサンボの母親が八神の部屋でフェレットの毛に気付くとかそういう仕掛けに普通に目がいって、非常に丁寧に作られたドラマに見えた、というのはありますから。
それプラスその状況でサンデーズのメンバーがそれぞれに良い緊張感を持ち、いつも以上に良い舞台を作ったというエピソードが、それまでのゆいかのアクシデントがウケる、という演劇のはなしなんだかお笑いのはなしなんだか、という展開を苦々しく思っていた私の気を良くしたのは確かです。
だからこそ5話で仲間が注目されることにすねたキャンディの行動が、ゆいかの演説で治まることで「あー。この番組のスタッフはウエトアヤ持ち上げておけばそれで良いと思ってるんだ」と見えたことに言及せずにはいられなかったんですね。
それは私にとって大したことだったわけではありません。「面白い」と思ったことが勘違いだったのだから、もうこの番組の感想は書かないよ、という意思表示程度のものだっただけです。

最終回の感想に書いていますが私がこの番組いやなのって、制作者が「小劇場演劇なんか、芸能界に相手にされない人間のやることだろ?」と思っているのが透けて見えるからなんですよ。
実のところ、ごひいきの劇団がある東京エリアの人間ならいざ知らず、演劇ファンですらそうでないとは言い切れないと思ってるところはあるから認識として一般的でないとは言えないんですが、こういう見られ方はそれを好きな人間が一番嫌うものだから(売れないバンドのファンほどメジャーなバンドは商業主義でどうこうとか言うのと一緒です)、この段階でこの制作者は小劇場演劇のファンというパイは放棄したと言えるでしょう。
だってそもそもゆいかのことミューズだって言うんですよ。「あなたはこんなとこに留まる人じゃない」って、それじゃあ10年間そこにすら行けなかったサンデーズのメンバーってなんなんですか。
ほんとなら演劇という芸能活動に関わって人気を得る器でない集団が、たまたま華のある少女に関わることでいくらか注目を集めるが少女のいない集団はその器ですらない。「下北サンデーズ」はそういうはなしだったことになります。だって公演中止の挨拶であくたがわが「本多劇場の器じゃなかった」って言ってるんですから。

しかしその不快感にダメを押すのがゆいかが映画の現場を抜けてサンデーズに戻る結末です。ここに来てケラやじいちゃんの「売れるな」というご託宣は、ラストでゆいかがサンデーズに戻ることを正当化するために用意された言い訳だったんだと見ている方は気付きますが、そんなの全然納得できませんから!
だってゆいかの演説以外の全ての要素(本人たちの意識を含む)が彼等を芸能界の負け組と定義してるのに、ラストでそこに戻ることが正しいとどうして思えるんですか。
ことほどさようにゆいかの存在がドラマの作りに対する言い訳にしか見えない。ウエトアヤを立てるために他の見せ場を彼女に譲るというならまだしも、誰も見せ場など作れるはずのないコンプレックスまみれの集団のドタバタを時間内に収めるために、ゆいかに演説させてるだけ。
原作もドラマもサンデーズに出会ったゆいかがサンデーズのために関わったグラビア撮影で注目を集め、サンデーズより芸能界の仕事を優先させることになるが結局サンデーズを選ぶ流れは同じですが、世間的な成功より思い入れのある集団を選ぶ結末に説得力を持たせるには、その集団の魅力を描かないとはなしになりません。

それぞれにコンプレックスを抱えた劇団員のドタバタをサンデーズのメンバーとゆいかが解決するはなしなら、集団としてのサンデーズの絆もゆいかの劇団への思い入れも納得できたと思うし、それがそう難しいこととも思えません。4話はそういうはなしだったし、脚本として特にできが良かったわけでもないですから。
私が嫌なのはこのドラマが上戸彩のアイドルドラマですらない、上戸彩のドラマであることを言い訳に杜撰に作られた芸能界ばなしでしかないことなのです。
上戸彩を魅力的に見せたいなら原作を忠実に再現した方が、よっぽど魅力的に見えますよ。
ぼけーーっと、スクール水着でグラビア飾っちゃう世間知らずの女子大生なんて、ファンじゃなくても喜んだと思いますけどね。

テレビ人種の堤幸彦には、貧乏暮らしに耐えながら芝居を続ける人たちを肯定的に見れなかったのかも知れないし、小劇場演劇からテレビメディアに移った河原雅彦は、小劇場演劇に関わる人々を肯定的に描くことに照れがあったのかも知れません。
けれどそういう無神経な目線で彼等を描いたことが、このドラマをゆいかの思い入れに感情移入できないちぐはぐなものにしたと思うのです。
そこに不満を持つのは、私の思い入れとかの問題じゃないです。

私がこのドラマに関してだけ構造にこだわったのは、スタッフが作ったこのドラマの基本構造が最初から間違って見えたからなんですよ。