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今だからいうけど、去年のななめでイヤミなカブト初見感想の仮想読者は伸ちゃんね。別に伸ちゃんがうちのブログを読んでると思ってたわけじゃなく、「ほんとにこういうのがやりたいの?」と聞きたい気持ちを、友達にイヤミ言うテンションで綴ってました。痛くてごめんw。
なんでそうなったかというと、ぶっちゃけ伸ちゃんP作品だからという以外の視聴モチがカブトに持てなかったせいで視点も論点もそこに特化しちゃったからで、でもそこでヒートアップしたテンションがカブトを楽しんで見ている人、ことにやり玉にあげることの多い米ちゃん脚本が好きな人からしたら気分悪いだろうなというのは分かってたからそこを突っ込まれればなるべく気持ちが伝わるように対応したし、批判する部分が言いがかりになってないかというのは気をつけたつもり。
でもなんでそこまでして感想を書いていたかといえば、伸ちゃんもライダーも好きだから語りたいからで、好きで見ているからこそ「こういうのが見たいのに」という気持ちはついて回るし、そういう不満を言っちゃいけないんだったらそもそも書く意味がないよね。
ブログ始めたのは、「みつうがexciteで書いてるから真似したい」というちょーミーハーな理由で、リアクションがないのもアクセスが少ないのも全然気にならなかったけど、1年半くらい続ければそれなりのリアクションもあるし、自分の書いたことに賛同を得たり別の面からの考察をもらったりの楽しさもあるし、解析みて毎朝早い時間にアクセスしてくれる人がいたり、過去ログまでずっと遡って読んでる人がいればうれしいです。誰もWEB拍手押してくれないのは寂しいけど(((爆)))。
その一方で、例えば白倉ライダーの話題に黒猫亭さん辺りからリアクションをもらって楽しく伸ちゃんのはなしをしていても、そもそも白倉作品のツボも好きな場所も違う私と黒猫亭さんの描く白倉像が完全に一致するわけはないという気持ちは最初からあるし、でもそれじゃ話す意味がないのかといえば「でも私はこう思う」と言い張りたい部分もあるし、それはあちらにとってもそうだと思うし、ただそこでお互いに自分の意見を言い合ったところで、ことが間に脚本家や監督や役者といういろんなファクターをはさむPの文芸性とあっては真相なんか分かるわけがないし。
でもそのやり取りの中で、自分の否定的なこだわりを違う方から見る視点ができて「ああ」と思うことはあるし、それはよそのエントリを見た時も同じことが言えるけど、最終的に「自分がどう感じるか」という皮膚感覚は誰にもどうしようもないと思うんですよ。
そもそも私は人がどう見たという視点に興味はあっても、それで自分の感想が変わることはほぼないし、それは他の人だってそうだと思うし、ドラマなんか映ってるもんがすべてじゃねーかっていうのは前提だしね。
それでも自分が見たものを人はどう思うかとか、自分はここが引っかかったけど他の人はどうだった?とかがあるから、人のブログ見にいったり感想あげたりするわけで、その感想で言葉選んだって仕方ないよね。

最近に関していえば、電王の“感想”ならいくらでも書けるんです。ただカブトの後半で制作者の意図を勘ぐるとか脇筋を妄想する視聴ポジションが定着してたんで、それに比べるとなにも考えていないような気がしてしまうだけですw。
それでも良太郎良い子だよね、ハナちゃん可愛いよね、と思う気持ちにリアクションが欲しいから感想書いてるんだけどね。
「カブトどーなのよ!」と言いたい気持ちはあっても、「電王面白いよ!」と伸ちゃんに言いたい気持ちはあまりない私は人としてどーなんだという気持ちはありつつw。

反感に対応する方が面倒だから、発言には気をつけようとは思うけどさw。