遠坂ルート終了

なぜ士郎がむかつくかと考えるに、“正義の味方”を名乗る人間が私は生理的にダメなんだと思う。そう名乗ること自体が士郎の救われなさなのは承知の上で、「だってあんたが好きでやってんだから承知の上でしょ?」と、意地悪く言いたくなってしまうのだ。巧は良いけど真司はダメで、天道は良いけど加賀美はダメ、やや乱暴にいうと良太郎が良くても侑斗が微妙にアウトなのもたぶんそのせい。
ただただ“守りたい”という理屈でない情動は無条件で肯定できてしまうけど、そこで当事者が自分の正しさを主張しはじめると「それはあんたが決めたことなんだから頑張れよ」と言いたくなってしまうんである。ボランティアでやっていることはできる範囲で良いけど、仕事でやっていることならできて当然、っていうたぶんそんな理屈w。
でも士郎を追いつめてるのってそういう理屈でしょ? 自分は正義の味方だからできて当然っていう。そんなの救われないものが存在することを容認できなかったら自分が追いつめられていくのは当然なわけで、「切り捨てられるものがいてはならない」という主人公の意志の下に士郎の与り知らぬところで殺されたものがいる一方で、慎二が生き延びてしまうこの世界の理不尽さがちょっとヤだなあw。
過去のSSPライダーっていうのは主人公のなす正義に繰り返し「本当にそれで良いのか。お前は正しいのか」と問い続け、迷いながらでも信念を通す彼等の姿を見せることで、「良いんだ。君は正しい」と視聴者が答えを出すような物語だということを私は言っているけど、英雄エミヤの人生というのは「駄目だ、俺は正しくないと」と自分で言い張り続けた挙げ句、誰にも「良いんだ。君は正しい」と言ってもらえなかった人生でしょ? だからこの物語の中で士郎を否定したアーチャーが士郎をかばって死んだ時点でエミヤの人生と士郎の人生は同じじゃないんだよね。最期の瞬間にエミヤの理想を曲げたものは、自分の生が自分の理想を求めたものだと誰にも認めてもらえなかった、という空しさなのだから、それは空虚なことではないんだと当のエミヤに認めてもらった士郎は、この聖杯戦争の17才の時点で自分の生に赦しを得てるんだもの。
セイバールートがセイバーが自分の生の赦しを得るはなしだとしたら、遠坂ルートは士郎が赦しを得るはなしだと思うんで、私は遠坂ルートの方が面白かった。それって結局、セイバーよりアーチャーに救われて欲しいというそれだけのことだと思う。