仮面ライダー響鬼は誰の作品だったか

他人にどう見えようと私は年間通して響鬼のファンだった。
厳密にいえば1クール辺りはそうでもないけど、寝過ごして見られないと1週間落ち込むからビデオを録ることにして、あまりの面白さに迷わずDVDに録画しなおした「狙われた街」以降は、欠かさず起きてリアルタイムで見ながら番組を楽しんできた。
某所で番組のアラに突っ込む内容に弁護のカキコをしたことも1度や2度じゃない。


それでもインタビューで見る「子供向け」とか「少年の成長物語」という高寺氏の発言が、番組の現状からすると的外れなものなのは感じていたし、P交代の噂が出始めた時点で本当だろうと思った。
自分の楽しんでいる「仮面ライダー響鬼」が、ヒビキの“同士”(私にとっての"buddy”の訳語)のはずの明日夢の成長、という“本筋”を置き去りに、番組の設定を紹介しながらその場しのぎのエピソードを並べる、二次創作と変わらないものなのを感じていたからだ。
力のある役者を得て、それはほんとに魅力的なアンソロジーだった。
キャラクターの捉え方に齟齬があっても、文章の美しい二次創作には感動できるように。


学校に寿司屋の出前を取る転校生が出てきた時に、自分の好きなものを台無しにされた気がしたことは否定しない。
白倉Pの作品になじみはなかったが、井上氏の脚本は演じる中村君の拙さもあいまって、いかにも子供向けの安いものに見えた。
その気持ちが変わったのは、井上脚本の第2作「超える父」を見た後だ。
リアルに考えるなら、自分と離れて新しい家族と暮らしている父親の生活圏をうろつき、隣家の犬小屋を作らせてくれと頼む明日夢の行動は、相当迷惑なものだろう。
けれどそういう嘘くささを理由に、あのはなしの明日夢に感じたいじらしさを否定するのはとても馬鹿馬鹿しい気がした。


子供だましに目をつむるつもりはなかった。
それでも作り手が分かりやすさをねらってやっていることにつっこんで、“見る目のある視聴者”を気取るようなかっこ悪いことはやめようと思った。


そう思って見れば、カツオ編はギャグ編なりにたちばな周りの人たちの優しいつながりを感じさせるはなしだったし、機械音痴やらなにやらの設定があるだけで人格なんかあるかないか分かんなかったヒビキさんの、“人格”を感じさせるはなしだった。
その後の朱鬼編では、“魔化魍を憎んでいる”とか“父親が鬼だった”という設定があるだけの、オタ向け巨乳キャラに過ぎなかったあきらを使って、明日夢たちの弟子入りばなしをすすめつつ“鬼とかなにか”を語り、どう見てもクリスマス戦略な斬鬼復活ばなしに絡めて、師弟の絆を描いてみせた。
ネットにはイブキを「弟子に逃げられたへたれ」と呼ぶ人間があふれていたが、私には今までよりずっと深い師弟の絆と、イブキのあきらへの愛情を感じさせるはなしに見えた。
それらのはなしに絡んで、ようやく明日夢は自分の生き方を考えはじめた。
30話になってようやく、物語は“本筋”を語りはじめたわけだ。


けれどそれらの“本筋”はみんな、高寺氏の提示した設定を拾ってのものだ。
わずかに朱鬼の設定に“先代の斬鬼”や弟子なのに鬼名を名乗っていることとの齟齬はあるけれど、あの時期にザンキを違う名で読んでもオタ以外の視聴者は混乱するだけだろう。
“先代の斬鬼”に関しては、登場時期もあって私はでっちあげの可能性が高いと思っている。


30話以降の脚本は井上氏らしく、人の弱さや迷いを折り込んではいても、登場するキャラクターはあくまで高寺氏の設定した、心優しい人助けの鬼だった。
トドロキへの愛情で禁術を冒すザンキの行動が、エゴではあっても愛情からの行為なのは、555の草加の真理への思いが、愛情ではあってもエゴなのと対照的だ。
京介も朱鬼も、高寺体制ではありえないキャラに見えても、実は関わる人への愛情を秘めた、性善説の立証例だった。


今となっては、響鬼の本筋は30話以降の19話だけだと思う。
1/3にも満たない中で当初の予定どおり少年の成長を描いて見せた白倉氏と井上氏には感心するが、フォーマットを作ったのはあくまで高寺氏だ。
白倉氏は高寺氏の代わりを務めたに過ぎない。
最初に白倉Pのもとに音撃戦士のアイデアが持ち込まれても、「俺ならこんなはなしにしないよ」と白倉氏はいうだろう。


駈け足の感はあったが、今日のはなしはすごく高寺氏っぽいはなしだった。
仮面ライダー響鬼は、本当は48話かけて今日のように、年齢や能力や立場を超えて、互いに支えあうヒビキと明日夢のはなしであるべきだったのだ。
そうできるはずだったのだ。だって仮面ライダー響鬼は、高寺文脈で描かれたはなしなんだから。


恐ろしく読解力のない人が多いからあえて書くが、「なんで高寺氏を降ろしたんだ」と言っているわけではない。
「そうできるはずだったのになんでできなかったのだ」と、高寺氏への怒りでいっぱいなんである。