特撮番組であること

超光戦士シャンゼリオンバイブル】
某所で評判を聞いて気になったので購入。制作時期が2002年とあって暁であるべき萩野崇さんのビジュアルがまんま浅倉。「暁ったら。お金なくて苦労したのね」って雰囲気なのはご愛嬌w。

龍騎のキャラクターとして考えるなら、私は浅倉が大嫌いです。
だって北岡先生の性格大好きなんだもの。龍騎の浅倉登場シーンなんて、もうずっと「とっとと殺そうよ、こいつ!」と叫びながら見てたしさ。それでも555見て村上幸平の他作品が気になったように、龍騎見て気になるのは萩野さんなのな。番組のキャラクターとして嫌いであることと、番組の面白さって全く別だから。
まあそんなモラリストってわけでもない私が浅倉見てて「邪魔ないんか、この描写」と思ってしまうのは、逆にその描かれ方が魅力的に見えてしまっているから、ってのはあるのかとも思う。

注目度の高い表現メディアであるTVとか映画とかは特に表現に行儀の良さが求められてるっていうか、悪いもの、マイナスの感情を描くことに否定的だ。このブログのネタになっているものでいうなら「夜王」がホストものでありながら、“客を食い物にする”みたいな描写を否定的にしか描かないように。
そういう中特撮番組を見ていると“ジャリ番”という貶めた言い方を逆手に取って、多彩な描き方をできる可能性を感じることがある。
龍騎36話の浅倉の逃亡劇とか、あれを現実の犯罪者にした一般ドラマじゃ絶対OAできないよw。
まあここ数年特撮の注目度が高くなったことで、逆に不自由になってる気はするが。

だけど「特撮でも一般ドラマに負けないことができる!」と息巻いて、変なところで一般ドラマの真似をするのは違うと思うのね。
むしろそういう考え方の方が特撮を馬鹿にしているって言うか。
小説だってホラーとSFと純文学じゃ書き方が違うわけで、それは単純なノウハウの問題だと思うのよ。
特撮なら特撮にしかできないことすれば良いじゃん。
そして見る方も、その世界の価値観にあった受け止め方をすれば良いんだと思うの。