ちょっと思ったこと

天道のひよりの料理に対する高評価は、ひよりの料理が天道に刷り込まれた味覚(=母親の料理)を受け継いだものだからなんじゃないだろうか。記憶のないゴンにすら「一番おいしいみそ汁」は母親のトマトだしみそ汁だったみたいに。
そう思えば生簀前編でやつがひよりの料理をくさしたのは、ひよりの料理が技術的に優れているというより天道の好みに合うものだということを示唆したシーンだったのかも知れない。
(「おまえにひよりの料理を語る資格はない」のシーンね。)
まあその辺は私にはわりとどうでもいいことなんだけど、ひよりの描写を見る限り、擬態日下部夫婦はワームの本性を現すことなく一般的ファミリーとして仲の良い親子をやってたみたいなんで、それはどういうつもりだったんだとか考えたらちょっと切ないな。
ワームは能力や姿、記憶を写し取ると描写されているけど生簀の料理への執着とかは記憶云々の問題じゃなく自我の領域だよね。
自我を作るのは記憶(経験)の積み重ねではあるけどそれだけではないし、そういうならワームとしての意識を超越するほど強烈な自我を持つ人間(生簀とか神代とか)に擬態したのが妙な行動に出ているってことか?