天道か日下部か

自ら「日下部総司として生きていく」と宣言したダーク総司くんですが、彼が擬態したのが渋谷隕石の時点だとしたらすでに彼の名前は天道総司。自分を天道総司だと思えばこそのあの台詞なんだろうからやっぱり彼は擬態天道なんじゃないの、ということを書くつもりで考えはじめたエントリなんですが、なんか考えてるうちにあれれれれー?、ということに。以下、天道の人となりが大好きというわけでもない人間からの意見ですので天道好きの方にはまた別の見方もあるんでしょうが。

ひっかかったそもそもは擬態天道のファーストシーン(厳密にはエリアXがそうですが、あそこは台詞もないし、現在の子供天道で演じているわけでもないので)。蓮華の料理においしいと笑い、こける蓮華をすかさずかばって「大丈夫?」と気づかう天道は、実はオリジナル天道よりも天道らしいんじゃないかと思ったんですね。

もともと天道のコピーなんだから当たり前ですが、天道と擬態天道はよくも悪くもそっくりです。あの思い込みの激しさといい、ひとつ決めたらアクティブに行動するとこといい、なによりひよりが一番なところといいw。
擬態した人間の意識で妙な行動に走ったワームとしてはマコトワームや岬ワームの例がありますし、ワームとしての記憶まで失った(といっても、ワームの意識が戻っている時にはオリジナルの意識は飛んじゃうんですが)ぼっちゃまの例もありますが、自分がオリジナルでないと認識した上で、オリジナルとして生きていくと言い切る辺り天の道を行く人の自我は半端じゃありませんw。

もちろん天道が悪い人間でないことを1年近く見てきた私たちは知っているんだけど、その判断のよりどころとなる要素−−子供への気遣いとか、加賀美の覚悟が決まるまで黙ってワームにやられていてやる優しさ(4話)、自信喪失した加賀美のために、自分がクロックアップしてワームを倒したことを黙っていてやる気の好さ(16話)は、むしろ擬態天道と重なるんですね。時として天道が嫌なやつに見える俺様ぶりは、35話で影ちゃんのズルを「お前は天の道を外れた」と切り捨てる非寛容さ(もちろんあれは影ちゃんが悪いんですが)から出ていて、むしろ天の道(正道)を行かねばという過剰なこだわりが彼を不自然なまでの俺様にしている。
44話で自分が倒された後の指示を蓮華に託す場面を見て思ったんですが、他にそれを頼める人材がいないという事情を差し引いてもそんな大事なことを蓮華に頼むというのは、加賀美が天道にものを頼まれるようになるのにどれだけかかったと思ってるんだ、と考えると信用し過ぎな気がするんですよ。もちろん作劇の都合もあるんでしょうが、劇中の描写から理由を探るなら、それは天道が蓮華のまっすぐな信頼にほだされた結果だと思うし、むしろまっすぐな気持ちには簡単にほだされるその気の良さが天道本来のもので、ずっと加賀美のことを「面白いやつ」と距離をとっていた態度の方が、自分を律したものに見えてくる。

きっとおばあちゃんがそう教えたのでしょう。
「天の道を行き、総てを司る男」−−ヒーロー番組の主人公の名乗りとしてはなんということもありませんが、両親を殺された幼い子供が自己をそう定義付けたとしたら、それはずいぶん痛々しいはなしだと思うんですね。
ネイティブに両親を殺されることもなく普通に妹の誕生を迎えていれば、天道は孤高の俺様・天道総司ではなく、妹べったりで偏狭な正義感の固まりではあっても、気の優しい好漢・日下部総司として成長したと思う。−−そう考えると「天道総司」自体が日下部総司の「あるべき自分」の擬態であって、「守るべき世界」(=総て)の呪縛から解放されたダーク天道が「日下部総司」を名乗るのはそりゃそうだろう、ってはなしになるんです。
なんだやっぱ日下部総司で合ってんじゃん。

……とは思うのですが、きっと私は来週以降も「ダーク天道」と呼び続けると思います。
だって「ダーク日下部」って呼びにくいし、ダークもなにも、オリジナルの「日下部総司」が劇中に存在しないしさ。
しかし「戦いの神カブトに選ばれし日下部総司」なところを見ると、天道がカブトの資格者になったのはやっぱ一種のバグなのかな。
ダーク天道を長いこと拘束だけして殺してしまわなかったのは、擬態であっても「日下部総司」が必要だったからなのかな、とか思ってるんだけど。<まーくんが「実験体にする」とか言ってたよねー?