シラクラ的なるもの

ファザコンの三島とか地獄兄弟とかの「つーかそれ本筋じゃないし」ってところを、自分でも「も・良いじゃん」と感じながら語っていたら、自分でちょっと見えてきたかも。

三島を“愛とか絆とか理解できない権力志向の人間”と見るのは、描かれた筋書きを見る分には間違っていないし、その行動を裏付ける描写が脚本上ない時点で、他の要素があったかなかったかは問題じゃない。三島が“悪”だったか“悪になってしまった者”だったかは、カブトを語る上で大したことじゃない。
そして脚本にそういう描写がない以上、「そういう風にも見えた」のは弓削君の演技からくるたまたまだ。……が、そもそも龍騎の由良吾郎の経験が自分の俳優経験のベースであることをあちこちで語っているいわば平成ライダーチルドレンの弓削君にこんな役を振れば、こう演じるのはある意味当たり前である。平成ライダーで育った役者が平成ライダーの現場のやり方で役を掘り下げ、出来上がったものはあらなんか平成ライダー臭いですね、って、そりゃそうだろ。三島の役を弓削君に振った時点でそう見えるようになるのは伸ちゃんには分かってたはずだし、逆にいえば期待したからこそ弓削君に振ったんだと思う。「気付く人だけ気付けば良い」というレベルでも、そのストーリーは一応存在してたんだ。
前のエントリで“欠落”か“歪み”かにこだわったのは、それが矯正可能なものか不可能なものかで三島自身の悲劇性が変わってくるから。父親が上司にへつらうのを見てその卑屈さが自分達を守るためのものなのを理解せず、疎んじるような三島の心性は醜いけれど、執着からくる憎しみで道を誤る愚かさは痛々しくもある。その愚かさはいわば555以前の白倉ライダー世界(面倒なので以下、前白倉ライダー世界とする)の愚かさで、私がひっかかったのは伸ちゃんがかつて愛情を注いで描いたそういう愚かさに、「分かる人が気付けば良い」というレベルでしか目を配らなかったことだ。

同じことは地獄兄弟の描き方にもいえる。
兄弟の結末を私が肯定しないのは、それが影ちゃん自身にとって絶対幸せじゃないからだ。
死ぬことで兄貴を手に入れた影ちゃんは物語の人物としては幸せだけど、影ちゃん自身に死後のことを思って満足できるようなブンガク性はない。
兄貴は影ちゃんと違ってブンガク的だから死後の幸せを願うことができるけど、体育会系の影ちゃんには目の前の現実がすべてだ。
自分自身について悩む−−私はそれをブンガク的自我の在り方だと思うが、前白倉ライダー世界の住人にあったそういう自意識は、カブト世界の住人に関してはほとんどない。加賀美も天道も、目の前の状況に悩むことはあってもその状況への現実的な打開策以外のことで無駄に煩悶したりはしない。
現実にはただの結末でしかない“死”というものに意味を見いだせるのも私はブンガク性のひとつだと思うのだが、そこまで範囲を広げてもカブトでブンガク的だったのは井上キャラの大介とある意味擬態天道、そして矢車と別枠で三島くらい。
最初はひよりもそうかと思ったが、よく考えたら実はブンガク性なんかないから「擬態天道<現実」なんだろうと思い直した。それ以外の人たちにとっても重要なのは目の前の事実だけで、もともと井上キャラだった剣ですら、結果的に描かれたのは「自分がワームだった」という事実に対する現実的対応に過ぎなかったと思う。

そういう意味では兄弟も555以前のキャラとは違うのだが、成長拒否、世界からはじきだされることに開き直る怠惰、他者への不寛容という記号はいずれも前白倉ライダーの問題点とされていたもので、一種のセルフパロディなんじゃとすら見えなくもない。そこまで穿った見方をするには、影ちゃんは単純すぎるけどw。
それでも“抱えていたもの”という点で私が釣られたのは当然だと思うのだが、その描かれ方はある意味三島より容赦がなかった。

兄貴に対応する前白倉キャラというのは思い付かないのだが、影ちゃんの愚かさというのは555の海堂に近い気がしていた。
海堂はオルフェノク3人組の中で一人だけ生き残るが、愚かさのゆえに裏切りを繰り返し、最後には木場も結花も照男も失って、かといって死ぬこともできずにオルフェノクの死を待つことになる。
ある意味死ぬより悲惨なのだが、逆に「愚かなまま死なせない」という美意識なのかな、とも思っていたので影ちゃんだけが死ぬ可能性というのはまるで考えてなかったんである。作品の主題に対しての負けポジションというなら草加や木場もそうだろうが、木場の負け具合なんか兄弟以上に悲惨でも、死に際しては「君が答えを見つけてくれ」と巧に託したようにメタな視点の理想に殉じるというような、己を信じて逝けるという意味の救いは赦されていたんじゃないかと思うのだ。
コメント欄で言ったことがあるが、私が影ちゃんの死でショックを受けた最大の理由は、ライダーの末路として伸ちゃんがこれを「有り」だとしたことなんだと思う。伸ちゃん視点の救いがまるでないのだ。

途中経過に不満はあるが「カブト」のストーリーのアウトライン自体は面白かったと思うし、1話単位でもそれなりに楽しめていたんだから「カブト」のできがそう悪かったとも思わない。
にもかかわらず最終回で不満が先にきたのは、私が一番気にかけてほしかった部分への目配りのなさゆえだと思う。それはもう伸ちゃんの中では終わっているのかも知れない。でもだとしたら、カブトの物語が途中こっちに戻ってきそうになっていたのが別の意味で不満なんである。

結果的にカブトは、いわゆる“シラクラ的なもの”を否定した作品になったのかも知れない。もっとも途中経過の揺らぎ具合と、三島と地獄兄弟の物語の無駄な美しさがどんな意味を持つのかという点で私の中では判断保留だ。
“いわゆる”を外した真に“シラクラ的なもの”が見えてきたら、答えが見つかるのかも知れない。