ファイズギアのない世界を乾巧は生きていけるのか

難しいことはよく分かんないのだが、伸ちゃんの「ヒーローと正義」を最初に読んだ時の感想は、「なんでこの人はこんな自分で信じているわけでもない理屈で他人を丸め込むために、わざわざ本まで書いてしまうんだろう」ということだった。まあその辺はいろいろあるんだろうけど、そこはとりあえず置いといて。
東映特撮というのは仮面ライダーに限らず、「人知れず戦う」というフレーズがついて回る。グロンギの爆発の設定などの理由で被害状況がシャレにならないものになり、同時に報道で存在を知られたことで英雄的に扱われたクウガの例はあっても、ミラーワールドやクロックアップの設定が存在すること自体、その戦いを匿名性の高いものにしておきたいという作り手の配慮は見てとれる。そしてその戦いが人知れぬものである以上、そもそも正義だと主張する必要なんかない。正義とは他人を説得するために必要な理屈であって、ヒーローの戦いが「人知れぬ」ものであるなら、それはあくまでも個人的な行為で他人に忖度される筋合いのものではないからだ。

よく引き合いに出される「なぜ人を殺してはならないか」という問いへの答なんか、「誰も死にたいとは思っていないから」に決まっている。自ら死にたいとは思わない、仮に死にたいと思う事情があっても時間や状況の変化で心変わりが期待できるなら、法的にも道義的にも他人が人の命を奪うことが許されるわけがない。それはむしろ「他人を悲しませてはならない」という禁止だ。殺される本人、残された肉親や友人、ヒーローはむしろ誰も悲しませないために戦ってきたのだし、それは白倉ライダーも変わらない。誰かを悲しませないために戦う善意の一般人が良い人なのは当たり前のはなしで、目先の人間を守ることに気を取られて大局的な視点がないからといって、テレビの前の大人があれこれいう方が大人げないともいえる。もっとも白倉ライダーの場合、その大人げないことを統括責任者が率先してやってるんだけどなw。

現実的に考えれば人間は目先のことしかどうこうできないのは当たり前なんで、どこぞで戦争やってるとか子供が飢えてるとか仔猫が殺されてるとかいうはなしに胸を痛めても、そこで自分にできることがなにもないのは普通の人なら分かることなんだけど、世の中のそういう悲しみになにもできないことが自分の罪だと感じてしまう人っているんだよね。前白倉ライダーの思考回路ってそういうものだと思うよ。すべての悲しみを救えない自分に正義を名乗る資格はないっちゅう理屈。
「戦うことが罪なら俺が背負ってやる」と決意しても、戦う相手の悲しみに気付いたらもう「じゃあこいつの悲しみは無視して良いのか」と思ってしまうが白倉ライダーで、ヒーローものとしての便宜上正義は常に考えてきたけど、目の前の人のためにできることをしようとする意志があれば、それが正義かどうかはたいしたことじゃないというのが白倉ライダーの主張だと思ってるんだ。私はね。

乾巧は自分の持つ負の力を拒絶して、この力を使うくらいなら死んだ方がましだと思ってた。それがファイズギアを得たことで、自分も誰かのために戦って良いんだという許しを得たと思うんだ。
そして伸ちゃんにとっての東映P職はファイズギアだったんだと思ってる。
少なくとも555までの伸ちゃんにはね。*1

*1:いろいろまとまらないんだけど勢いでアップ。後から補完エントリあげるかも知れません。