「mother」と「長い散歩」とテレビと映画

mother萌えのワタクシに某さんからオススメの奥田瑛二監督作品「長い散歩」視聴。ストーリーラインはほぼ一緒なんですが、細部の違いとかで諸々、思わずテレビと映画の違いとか考えちゃったりもしたんで、感想というより雑談ですが。
映画としては悪くはないけど私にとっては「知らんがな」って感じなのは、作中最も不幸なサチ(杉浦花菜)の未来に目配せがまるでないせいなんだけど、それはたぶん監督の奥田瑛二が娘をちゃんと育て上げたと思っているせいなんだろうなあ、と、言いがかりのような感想を持ってみるw。でもたぶんそうだよ。
長い散歩」では監督の奥田瑛二自身の演じる刑事が出てきて、作中の被虐待児童サチの母親(高岡早紀)を糾弾し、サチを連れて逃げる松太郎(緒方拳)を断罪する。「mother」でそれに対応する役は山本耕史の藤代だろうけど、藤代は奈緒松雪泰子)や仁美(尾野真千子)のしていることがどういうことかという“世間の目”の代理人ではあっても糾弾も断罪もしない。中盤以前に奈緒の障碍となる役割を終えた後は、継美(芦田愛菜)のような子供に同情はしても実際は無力で、ことの成り行きを無責任に面白がるだけの視聴者目線の人物だと思うんだよね。
motherって、“母性”のはなしと言いながら、主人公の奈緒世代以下に大人は一人もいないと思うんだ。サチの母親やヒモが男との性行為やロリコンという“大人の事情”でサチを虐待しているのに対し、自分を捨てた母(田中裕子)への憎悪を抱えた奈緒も、怜南(継美)がいたら友達と遊びにいけないと苛立つ仁美も、ポテトチップに手を出されて怜南をゴミ袋に入れる真人(綾野剛)も、ある種大人になれない幼児的な大人として描いてたと思う。真人に関しちゃみなさん「ロリコン許すまじヾ(。`Д´。)ノ彡☆」という評価でしたが、コドモ相手にやり過ぎたかなー、と後ろめたくなった時に、「かわいーかっこさせたら喜ぶんじゃね?」と思うのっていかにも真人の考えることだなあ、って思うし、女に小さな子供がいることを考えずに旅行に誘い、ハタチくらいのROCK少年が履くような靴をかかとをつぶして履き、女の家で1日中ゲームしている一方で、大人に責められたら涙ぐんでしまう真人って、とことん幼児的な大人として描かれていたと思うんだけどなあ。
坂元裕二に関しては「わたしたちの教室」の時に相当語ってはいるんだけど、そっちのコメ欄でも言っているようにとりたてて好きとは思っていないし、その後「太陽と海の教室」で胃が痛むほど腹が立ったのも事実だけど、わた教コメでもはなしに出した某さんへの電王評価同様、この人も自分の幼さという呪縛からmotherで解放された部分はあるんじゃないかなあ。motherの結末って、葉菜を恨んで籐子(高畑淳子)の愛情を受け入れることもできなかった奈緒が、継美の母になりたいと思うことで人を思うとはどういうことかとか、離れていても思う気持ちは変わらないとかを知り、“母”という大人になることで寂しさからの憎悪という呪縛から解放されるはなしだと思うんだ。motherのラストでこのはなしの重要人物である鈴原3姉妹とその恋人が、「障害のある子供の親になんかなりたくない」という“子供の理屈”から離れてちゃんと親になることを選び、果歩が「子供欲しくなった」と言って彼氏(川村陽介)がちゃんと就職することを決意する、大人になることの決意表明でハッピーエンドとしているのは伊達じゃないと思うんだよね。それは「子供にあんな我慢をさせるなんて可哀想」と、非難轟々な継美のラストにしても、視聴者がどう思うかはともかく、継美の方じゃ「一人でいけるから見ていて」と、ある種“大人になったんだ”と見せているわけだし。「あんな小さい子に大人の我慢を強いるなんて」と非難したくなる気持ちは分かりますが、誘拐犯の奈緒と暮らせない以上、それを恨まない方が継美のためだと思うぞ。大人になるまでと言わずに執行猶予終わったら引き取れって言うのも、8才の子供が3年我慢するのと11才の子供が我慢を9年延長するのと、どっちがつらいかは微妙だし。そんな小さい時に我慢できたんなら、もっと大きくなれば大丈夫なんじゃない?、って意味でね。
どっちのはなしも孤独な大人が孤独な子供にシンクロして、法的には誘拐の罪に問われるようなはなしなのは同様だし、母親が子供に小銭を渡す見せ方とかそのまんまなんで坂元裕二はこのはなし絶対見てるよなー、って思うけど、私motherの方が好きだなあと思うのは、やっぱ坂元裕二の方が奥田瑛二より子供だからだと思うよ。8才の子供を大人にすることでハッピーエンドにしちゃう酷さ含めて。だって奈緒を赦せることが継美の幸福になるのははなし見てたら明らかだし、こういう無理矢理なハッピーエンドを描いてしまうのは、坂元裕二が子供の不幸をそのままにしたくないと思っているからだと思うもん。長い散歩見ていてサチは松太郎の天使かも知れないけど、実際は人間なのにどうなったんだって思うじゃん。こういうほったらかしで美しい結末が成り立つのって、「長い散歩」が賞とか取るような文芸作品だからだよね?
この感じって電王の結末を心配してなかった感じに通じるけど、motherの結末に不安がなかったのって、あの誰にとっても継美の幸せを願わないわけのないはなしの中で、奈緒が死ぬとか継美が死ぬとかいうはなしになるのはお茶の間が許さないだろうと思ってたからですよはっきり言って。そんなの奈緒が死ぬとか継美にしたら決定的な不幸じゃん。虐待から連れ出してくれた人が自分との逃亡の末死ぬくらいなら、虐待されて死ぬ方がマシじゃない?、と私は思いますw。
美しいはなしは好きだけど、私は俗人だから美しいだけでは嫌なんだ。だからテレビドラマというマスの目を意識せざるを得ない媒体が好きなんだと思う。そういうハコの中で、最大限に美しいはなしを描いたところが、motherは偉かったと思うよ。