シュアリー・サムデイ

脚本:武藤将吾 監督:小栗 旬
つっこみどころはいっぱいあるし、すごくよくできた映画だとは思わない。小栗旬以外の人間が監督してて、この規模で公開できたわけはないと思う。でもそういう諸々を考える必要がないくらいこの映画面白かったし好き。公開時に映画館で見れて良かったと思う。
以下、ネタバレにつき隠しまーす。



えっとさー。このおはなしの前提として、この5人の現状って嘘も隠れもなくこの5人がバカだったことによる自業自得なんだよね。
だからって殺されるほどバカかっていったらそうでもないかも知れないけど、この事件には彼等が軽い気持ちでやった“バカなこと”の結果だと済ませるには重すぎる犠牲がすでに生まれていて、そしてその犠牲は知らなかったことと済ませるにはあまりに彼等に近いところにあった。だったら彼等が生き直すために、彼等は自分のバカに落とし前をつけないといけない−−というのはおはなしとしてのシステムであって、実際彼等のしたことは単なるバカの上塗りだと思う。でもそのバカは、少なくとも彼等が見ないようにしていたものを、ちゃんと見つめた結果ではあるんだよね。
だからこのはなしが始まった3年前と比べて彼等は成長なんかしてないかも知れないけど、少なくとも同じ過ちを犯さないために、彼等なりに頑張ったんだと思うんだ。その結果、別に彼等が頑張ったからじゃないかも知れないけど、いろんなことが解決したのはやはり彼等がいたからこその巡り合わせだと思うんだよね。
そんな風に、頑張るバカ集団の気持ちが重なりあう瞬間の、一緒にバカなことができる高揚感へのシンパシーこそこの映画の魅力じゃないかなあ。だってやっぱさ。彼等がどんなにバカでも(バカバカ言うなw)、なにかへの気持ちを共有することにはそれなりの美しさはあると思うし。
というわけで(どんな?)5秒で女を落とす秀人君本人は、5秒で宮城さんへの恋に落ちてたわけですねw?
つっか5秒で落とせるなら3秒でも落とせるんじゃないかと思うんだけど、なんで5秒はかかるんだろうねえw。というのはありつつ、基本的には秀人(綾野剛)ひとりのものでしかない宮城さん(横田栄司)との出会いが、宮城さんの形見とも言うべき曲として遺る。それを演奏することが彼等の“やり残したこと”だ、という理屈は秀人視点視聴者の私としてはとてもウツクシかったですw。
ほんと言うとさ。私は綾野君大好きだけど、役者として小出君や勝地君と同レベルに評価してるわけじゃないんで(だってあの人たち特Aランクよ?)この中に綾野君が入っているのはすごい不安だったよ。でも「そのままでいればそれでいいような人をキャスティングした」とオグリンが言うように、綾野君が岩崎秀人として存在している世界に没頭できたことがすごいうれしかった。ラスト近く空を見上げる秀人のまぶしそうな顔がすごくオトコノコっぽくて、なんか「これ見れただけで良いよー。オグリンありがとうv」とか思ってしまった。いやもちろん他にもいっぱい良いとこありましたよw。
キャスティングとしてすごいはまってたのはもちろんだけど、なんか色々、別にオグリンセクトと見ていたわけでもない人がいっぱい混ざっていることにちょっと笑ったっていうか、なんだか日頃言及している人の同心円みたいな集合で出来てる映画なことに軽く笑ったw。それ以上に、笑って見ていられる映画で良かったと思う。
ラストで美沙(小西真奈美)にふられた巧(小出恵介)を、京平(勝地涼)たちが笑いにきて、「相変わらずバカだなあ」と思わせて終わるのが良かったよ。「こいつらなんも成長なんかしてないんだなあ」ってはなしだっていうところがね。