あきらが弟子をやめた意味

あきらの鬼リタイアについては番組制作サイドの立場からは40話41話の時に書いたけど、あきら自身の立場からは書いていなかったので少し。
あのですね。自分があきらの立場で天才だなんだと持ち上げられつつ修行を続けてきて、「次は鬼だな」と言われながら先に進まなければ、すごいあせると思うんですよ。「自分には適性がないのか」と思うくらいに。
そこでそういう自分の疑問を否定する要素を探すだろうし、「親を殺された」という経験を自分の経験値だと思いたいのは当然ですよね。
自分はプラスの経験値を持っていると思いたいのに、それは鬼になるのに持っていてはいけないものだから捨てなさい。あなたの持ってるそれはマイナスです、と言われて、はい分かりましたというわけにはそうそういきません。
イブキやザンキは現に鬼なのだから彼等の言うことは正しいのだろう。でも考え方を変えれば、「憎しみが力になる」という自分のやり方だって正しいんじゃないの?、と思うのも当然です。
そういう時に出てきたのがシュキ。あきらにすれば自分の考えを後押しする存在に見えたでしょう。しかし現実には、彼女は憎しみで戦うことがどんなにはた迷惑なことかを自ら証明して自滅していった。
自分が死ぬだけなら、あきらにとってはそう大したことではなかった気がします。しかし自分の憎しみのために他人を犠牲にする。いささか潔癖すぎるあきらに、彼女を弁護する言葉はもう見つけられなかったんじゃないでしょうか。

「憎しみが力になる」というのは別に間違ったことではありません。そこから一歩進めれば良いだけです。どうすれば良いかなんて、今から5年も前に言ってる人がちゃんといます。
「こんなやつらのために、誰かの涙は見たくない。みんなに笑顔でいて欲しいんです」って。
こんなやつらですよ、こんなやつら。クウガの聖人五代雄介がグロンギを憎んでいなかったなんて、私はそんなことは言わせません。憎しみは力になるのです。ただ“鬼”という異形の力を持つものがその力を行使するためには、その力は他人のために使うものでなければいけないというだけです。
ただそれだけのことに気付けなかったのなら、あきらにとって“鬼の力”は人助けのためのものではなかったのでしょう。自分の力で他人の不幸を回避するということを、イメージできなかったのかも知れません。

私自身はあきらが鬼を目指した理由が憎しみだけだったとは思いませんよ。人のために戦う鬼たちの姿を近くで見ていた彼女が、そこからなにも感じなかったはずはないと思います。
だけど彼女は(だからこそ、というべきか)かつて自分は鬼になれるはずだ、と思ったと同じ強さで、自分は鬼になるべきではない、と思ったのではないでしょうか。

イブキから逃げ回っていたことに関してはシュキについていった自分が許せないと思ったこともあっただろうし、自分でも修行していた2年あまりの時間を無駄にするのはつらい、あきらめきれない、という気持ちのあるまま、なしくずしに許してもらって元の鞘に収まるのが恐かったんじゃないかと思います。鬼になるべきでないと思ったとして、鬼を目指して修行してきた彼女が、鬼になりたくないはずはありません。
そんな中鬼を目指す2人の存在が、あきらにとって自分の気持ちに決着を付ける、一つの道になったのかと思います。
もちろんイブキが自分のために費やしてくれた時間を無駄にさせるのが申し訳ない、という気持ちもあったでしょう。

目指していた仕事をあきらめるなんて、現実でも普通にあることですよね。それが特別な仕事ならなおさら。
鬼って警官とか消防士に例えられることが多いけど、私はむしろ格闘技のスペシャリストみたいな、本人のやる気と努力がなければどうにもならないもんなんじゃ、と思ってます。
(これ前にも書いたかな。)
自分にそれが無理だと思うならあきらめたって良いじゃないですか。

そしてあきらが今よりも大人になって、今のあきらをもう少し優しい気持ちで見られるようになった時に、もう一度鬼を目指すことも、全然ありだと思うのです。