イシガキユウマ/カミシロユウ

タイトルはささやかな検索除けの意思表示。どちらのファンの人にもお気に召す内容ではありません、たぶんw。
ドラマと原作の「ホーリーランド」のネタバレを含むので以下隠します。

ホーリーランド (9) (Jets comics (081))

ホーリーランド (9) (Jets comics (081))

ドラマDVDをきっかけに見事はまったこの作品。現在はネットもそっちのけで原作読んでます。もちろんとっくに読み終わってるので、その日の気分でお気に入りエピの辺りを拾い読み。お気に入りは12巻の山崎詣で辺り、6〜7巻のユウのスランプ編辺りかなあ。加藤戦の前フリでユウにボコられた世田商の子らがユウの噂してるとか、ユウが写メしたヤンキーに自分から挨拶する、なんてエピは好き。でもトータルに見ると原作のユウは腹黒くて女性的な性格だなー、と思うので大好きかと聞かれればそうでもない。
原作にもドラマにもそれなりの穴はあるなと思いつつ、ストーリー萌えで読んでいる。燃えじゃないのか、といわれたら燃えでも良いんだけど、個人的に当事者気分で感情移入=燃え、第三者の目で野次馬鑑賞=萌え、という語感なんでだったらやっぱ萌えだなあ、と。あ、腐れ目線はないです。金子監督の言う「ユウが恋に落ちたというなら相手はマサキ」という意見には激しく頷きますが、彼らがなにかするのは気色悪いと思う。
穴はまあ、もともと10話程度で終わるはずだったはなしなんだから矛盾が出てくるのはしょうがないよねと思いつつ、原作ユウの格闘モチベーションの高さにはちょっと退く。
けっこうこれは致命的に穴なんじゃないのかなあ、と思うのが原作にあるユウの自殺できなかったエピで、死ぬのが怖い子だったらやっぱ、いつボコられてもおかしくない状況になったら街には出ないと思うのよ。その辺り原作のユウってしょせん殺されはしないだろうとタカをくくってる感じがしてちょっとヤなんだけどさ。

ドラマのユウが危険な状況になっても街を離れないのは、石垣君のユウに関してはあっさり納得できた。石垣君のユウは気持ちの居場所をなくして、死にたいわけじゃないけど死ぬんだったらそれでも良いと思ってるように見えたから。
「自殺する元気はないけど居場所もないなら消えても良いなあ」と思ってるようなのがドラマのユウで、そういう人って痛覚もちょっと鈍くなってたりするし、DVD、Vol.4〜5辺りのユウはもう死ぬとかどうとか考えられなくなってるよね。原作だと漫画という表現の特質上、ファイトの最中でもモノローグはいっぱいあって、逆に金子監督はモノローグはほとんど使わない人だからよけい、石垣君のユウの行動が、感情的なものに見えたんだけど。
どうも“感情的”といってしまうとその場限りの爆発的なニュアンスになってしっくりこないが、石垣君のユウはすべてに絶望している「無少年」の状態が前提としてあって、その中で本能的に体を丸めていたのが(そのやり方は学校で授業に出ずに校庭の隅にいたり、家族と口を利かないために家に帰らずにふらついていたりで、絡んできたヤンキーを返り討ちにするのも、当初は“無”であるための手段だったと思うんだけど)シンとの出会いで光が差し、そのシンをやられて絶望したことで爆発した、ってもんだったと思うんだ。目的が”復讐”なのってある種建設的じゃん。どんなもんでも目的なんだし。
この辺の描写は原作もドラマもかぶってるけど、シンをやられて世田商狩りをはじめたユウの行動って復讐ですらないよね。原作の方だとユウは当初優勢で、加藤の立ち直りを待とうとしなければ一気に勝てた感じだけど、ドラマの方だとショウゴの言葉を思い出すまでは一方的にやられてて、それはつまりショウゴに会う前に加藤に行き会えば勝てなかったってことだ。勝てなきゃ復讐にならんでしょ。

原作のユウはこの辺を除けばわりと考え方も論理的で破綻のない性格してる。むしろこの辺の切れっぷりが違和感を感じさせるくらいで、逆にいえばこの辺りの流れがすんなりくる石垣君のユウは、この辺がクライマックスになることを見越して造型したのかな、とかも思う。
しかし現在私がこの漫画にはまっているのは、石垣君のユウのせいだと思うんだよなー。

ガラスの仮面」の初期エピソードに、亜弓が演じる完璧なたけくらべの美登利を見たマヤが、原作とはまったくイメージの違う美登利を演じるっていうのがあってホーリーランドの石垣君を見ているとこれを思い出す。
正直ユウも含めて、演技の上手い人だとはどうにも思えないんだけど、ホーリーランドのユウに関しては、伊沢マサキ風にいうなら求心力のある存在感とでもいうか……。

ちょっとすごいんじゃない?、とか思ったらなんか書いておきたくなったんです。