龍馬伝/第15話「ふたりの京」

http://www9.nhk.or.jp/ryomaden/index.html
演出:大友啓史
1862年。龍馬27才、以蔵24才、武市31才、弥太郎28才、久坂23才(生年より単純計算)
やっぱり以蔵可哀想かも。頭が……(θ_θ;。
本日初見は6時からのHVの分で、晩ごはん食べながら家族と見ていたんで、家族と一緒に「バカやバカや」と大騒ぎで見てしまったよ。昔なじみに人殺しを自慢するってバカだろー(θωθ)~*
しかし加尾(広末涼子)のなじみのばーさんの「わしはもう寝ますきに」がカンペキ「やっちゃっていーわよ」のトーンで、「なにこれ待ち合い? 加尾ちゃんなにやってんの(^_^;」と思ってたら、まさかの本間精一郎殺しとふたりの濡れ場のカットバック演出。まあ以蔵(佐藤健)の人斬りとふたりの恋は、今週のはなしの通奏低音だったわけですが。
でもさー。やっぱ私武市さん(大森南朋)が以蔵にしていることより、龍馬(福山雅治)が加尾にしてることの方がひどい気がするけどなあ。だって加尾の立ち場とか収二郎(宮迫博之)の気持ちとか、龍馬は承知の上でここにきたわけじゃん? それでヌケヌケと居続けで夫婦気取りって、図々しいにもほどがあると思うんだが。いや人の気持ちに対して。
加尾をやっちゃったことにしたって、そら加尾が龍馬を好きなのは前提だし、仲を引き裂かれた恋人同士が4年ぶりの再会なら別に良いじゃんって現代人は思うだろうが、龍馬が脱藩のお尋ね者で、それが収二郎たちと思想を違えた上でのことである以上、龍馬が加尾に会いにきたことからして私はちょっと許せないけどなあ。「会いたかった」というのは本心かも知れないけど、あまりに辛抱がないというか覚悟が足りない気がするよ。以蔵や弥太郎(香川照之)になにも言わずに脱藩したこと含め、結局は周りの人の気持ちとかなんも考えてなくて、自分が好きなことしててもつかまらなければそれで良い、って思ってるとしか思えない。
それに対して武市さんのしていることを、「以蔵ほめてもらえて良かったねーv」と思う私が人として間違ってるのは承知してますが。しかし現状勤王党の立ち位置に風聞とかそういうものが影響するくらい微妙なものである以上、それを排除するのが手っ取り早い手段なのは確かだし、そこで以蔵が役に立てるんだったら以蔵に対しては「良かったね」と思うけどなあ。つってももう完全に武市さんが以蔵の気持ちを利用してるのは確かなんだけど、そこは武市さんが“可哀想な人”なんだと思う。でもそういう武市さんの可哀想さって以蔵にどうこうできることじゃないし、むしろ武市さんに利用価値を認めてもらうことで以蔵がうれしいんだったらそれで良いじゃん。そういうやり方をすることを龍馬が許せないのなら、そもそも龍馬は脱藩なんかしないで武市に発言権のある位置をキープすれば良かったんだよ。東洋(田中泯)に「武市に役目を与えて不満をなだめてくれ」って進言したことから、龍馬の言ってることはとりあえずけんかを収める保母さんの論理だとしか思えない。保母さんの論理は人としての根本的倫理観かも知れないけど、いろんなものが絡んできた時にそれですべてが解決するわけじゃないじゃん。
んで今週のはなしはある意味以蔵のはなしでもあったわけで、私はとっても満足です。健の歯並びの悪さは昔から矯正しろって人がいっぱいいたけど、今週みたいな愚かさを強調するはなしだと特に、道化的な見え方に一役買ってくれて良いなあ、とか思った。二枚目ができないほど目立つもんでもないし。
けっこう以蔵が“可笑しさ”の部分を担うはなしだったんだけど、その可笑しさは本質的にどんなもんだろうと考えた時に、以蔵の武市さんへの思慕とか、それを利用しちゃう武市さんの哀しさ(武市さんの心情としての哀しさでなく、そこまで人として堕落しちゃうことの哀しさな)とか、そういう一途さだけで罪を重ねることの悲劇性とかをちゃんと見せる良いはなしだったと思う。大友さん演出の常で、あまり感情移入できないテクニカルな見せ方なのは相変わらずだが今週は気にならなかった。
だって武市さんならともかく、以蔵おバカ過ぎて感情移入はどの道できんもん(^_^;。