それでも、生きてゆく/第8話「それぞれの覚悟… 」

脚本:坂元裕二 演出:宮本理江子
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この前文哉の彼女で酒井若菜が出て思ったんだけど、この人わた教の脚本家なんだよね。いやもともと私にとって坂元裕二って、わた教書いてたから覚えてる脚本家なんだけど。
それで思い出したんだけど、文哉ってわた教の音也(五十嵐隼士)っぽいなあ。そういえばあっちの名字は雨宮健次と雨つながりの雨木だったけど。
たぶん坂元さん的に、文哉がああなのは音也がああだったのとおんなじで、要はモンスターだからってだけなんだろうな。なんというか、“そういう人間”っていうだけで、視聴者にも劇中人物にも理解させる気はないんだと思う。まあ衝動殺人犯が共感可能な人物であったらまずいんだろうし。
酒鬼薔薇事件だったか宮崎事件だったかの考察本で、「想像で人を殺す人間は少なくないが、実際に人を殺す人間は滅多にいない。実行するか否かの差はあまりにも大きい」みたいな文章を読んだことがあるけど、殺したいと思うことと殺すことは、どこまで行ってもまったく別物なんだと思う。まして怒りや恐怖を動機にしない殺人なんて同情の余地ないし。文哉がそういう闇を抱えた人間であることに憐れみの気持ちを持つことはあっても、その闇を理解するっていうのとは違うし。見ている私たちが文哉に共感することが不可能なように、双葉(満島ひかり)や駿輔(時任三郎)にも文哉を理解することは不可能で、むしろ坂元裕二の興味はそういう理解不能な人間を身内に持ってしまった人間を描くことにあるんだろうな。
だって今週見てて駿輔すげー可哀想だったもん。文哉がああなことに駿輔の人間性が無関係ではなかったにしても、自分の人生とか幸福とか棒に振らなきゃならないほどの失点ではないと思うのに、自分の過失と感じて行動を起こす=文哉の居所を探して会いにきた途端にこういう場面に行き当たるってなんなんだよって思う。
それにしても文哉はなんなんだろっていうか、あそこまで意味の分からん人間に子供殺されたら怒りのやり場もないよなあ。
草間(小野武彦)と駿輔のシーンとか、全編息もつけぬはなしであった。そして洋貴(瑛太)は双葉と誰も知らないところに行きたいって言うけど、坂元裕二の言う“世界”はしがらみの別名かも知らないけど、しがらみのない存在を孤独というんだと思うんだよなあ。