龍馬伝/第20話「収二郎、無念」

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演出:大友啓史
1863年。龍馬28才、以蔵25才、武市32才、弥太郎29才、久坂24才(生年より単純計算)
たける便は来たけど以蔵(佐藤健)の出番はなし。健ファン的には小休止の回であったが、そんなことには関係なく武市(大森南朋)ファン的に大満足の回であった。やっぱ収二郎(宮迫博之)は武市さんをよく分かってるなあ。なんぼ以蔵が武市さんを好きでも、この場所は以蔵には無理だもんなあ。
まあこの期に及んで東洋(田中泯)は土佐の政(まつりごと)を私した奸物である、死は当然である、と強弁する武市さんは空気読めよってはなしなんですが(それ、自分がやったって言ってるのと一緒……(^_^;)、この番組が龍馬たち西洋の技術を取り入れようとするという意味での開国派を肯定的に描くことで、武市さんたちの攘夷が愚かな視野狭窄に見えるのは番組的に当然だと思うから別に不満はないんだけど(それは描き方のトーンだから文句言うことじゃないと思う。ドラマはドラマなんだし)、武市さんの見方が時勢に合わないものだったのは事実だとしても、武市さんも収二郎も時代の中でなにかを成したかった、土佐藩の中で下士の身分に甘んじながら小さな幸せを求めるより、自分になにができるのかを確かめたかった、ってことだと思うんだ。
それはこの時代や体制の中では出過ぎたことで、古い体制の中で守られてきた人にとっては目障りで我慢ならないことなんだし、そこに思い至らない不器用さが武市さんの間の悪さなんだけど、だからって下士下士らしく大人しくしとけ、そういう気持ちを持つこと自体が身の程知らずだなんてことを、他人に言われる筋合いはないと思うんだよね。それを不愉快だと感じた時に、どうこうできる人がその力を行使するのは仕方のないことだけど、だからって思った気持ちを他人が否定するのは違うと思う。だって届こうと届くまいと、「目指したい」と思ったんだったらしょうがないじゃん。
そういう気持ちを共有できたのはやっぱ収二郎だからで、あんたにそれが分からないって言われるのは事実だからしょうがないじゃん以蔵、ってそう思うわけですよ。まあ以蔵に関しちゃ、思想は共有できないのに、剣の腕というスキルを利用できると思って本来は冨さん(奥貫薫)みたいな癒しポジションにしかならない相手をそうじゃないみたいに扱っちゃったところが武市さんの罪なわけですが、政治的な集団の中で癒しキャラに居場所がないことは、君が一番良く知ってるだろうよ(θωθ)~*
つっても武市さんにしたら、自分がそんなこと始めなければ、と思う気持ちはしょうがないんだけどさ。でも「おまえ邪魔。殺すけど良いよね?」という容堂さん(近藤正臣)の理不尽さは理不尽さとして、それが自分がなにかを目指した結果だからそれで良い、と収二郎が思うのは本心だよな。そういう気持ちを共有してない加尾(広末涼子)や龍馬(福山雅治)に、それが分からないのもしょうがないし。
ただそういう理不尽さを呑むことが理不尽である、ということはともかく、そこでサブタイを「収二郎、無念」とつけちゃうのって番組としてどうかと思うの。海軍学校で勉強してる権平さんは楽しそうで良かったけど、ほんととことんそういう視点の番組だなあ。
あと今週はメイン監督大友さんだったけど、たぶん牢のシーン(察するに、武市さんとの愁嘆場辺り?)の方が後で髭を剃れなかったんだと思うものの、切腹の準備をして白装束の収二郎が無精髭ってないだろうよ。大友さんは気を使うとこ間違ってると思うぞー。*1

*1:と思ったがそういえば、罪人は刃物を使うことができないからって、近藤勇が刑死の前に髭剃ったのも役人の好意だったんだっけ? リアリズムなのかなー。でも刑死の以蔵はともかく、武市さんには髭剃って欲しいなあ。