龍馬伝◆消えにし後ぞ澄み渡るべき

例によって思いつきでものを言うよw!
昨日の感想で、以蔵→武市さん→容堂公→幕府(徳川)への感情は同質のものだってはなしをしたけど、考えてみたらほんとそうだなあって思って。
武市さんの失敗が容堂さんを好きすぎて、容堂さんの徳川への感情を無視したことだ、なんてことは見てたら分かることなんだけど、武市さんが徳川はどうでも良かったように、以蔵だって容堂さんはどうでも良かったんだよね。何話だったかで、以蔵が宴席で武市さんの成功に舞い上がるあまり、「土佐の本当の殿様は武市さんだ」と言って武市さんにたしなめられるシーンがあったけど、このはなしの登場人物って、矢印の隣の人のことで頭がいっぱいなくせに、その隣、そのさらに隣の人のことはまるで考えないの。人はそれを近視眼的な見方というんですがw。
昨日は大森さんや健の熱演のおかげで、苦痛でしかない日々が、自分にとってなにより大切な人に認められて終わる、というなにがうれしいのか分からないような人生を生きた人を可哀想だと思うことはできても、それがうれしいことにはまるで納得できなかったんだ。もともと武市さんに求めるものが小さかった以蔵はともかく、武市さんなんてあれ、言われたことの中身は「こっちは徳川に愛想を尽かすことができなくて、無理矢理忠義を尽くそうと頑張ってるのに、よりによって山内家が徳川から受けた恩の象徴である長曽我部の分際で、徳川に楯突くなんてどういうつもりだ。おまえがどれだけ自分に忠義を尽くそうと、長曽我部であるおまえを可愛がる気にはならん」って意味じゃん。以蔵より武市さんの方がよっぽど、「君がため、尽くす心は水の泡」*1だよ!
そういう気持ちを、分かりやすく落胆とかせずに、容堂さんに良い家来だと認められたという一点以外はすべてどうでも良いこととして、容堂に賜った剣で「立派に腹を切る」ことこそ喜びと演じた南朋さんは偉いと思う。だってこの人、それくらいでがっかりとかしないと思うもん。だけどさ。「殿様にほめられてうれしーよー」な武市さんが、それでも以蔵のことは覚えてたのはある意味偉いけど、容堂さんが武市さんを認めるのは徳川第一の前提の範囲内であるように、武市さんが以蔵を可愛いと思うのも、あくまで容堂さん大事のついでなんだよね。
それが空しいかどうかというのは見てる方が思うことで、そもそも死が決定事項であるような武市さんにしたら、自分の行動が容堂さんのためだと言えるだけで満足なんだろうし、以蔵にしたら、もう「武市さんがうれしいんならそれで」と思うしかないじゃん。腐った意味で言うんじゃなくそれって決定的な失恋だと思うけど、*2以蔵にとって武市さんに志があるのは前提だったと思うし、以蔵にとって武市さんは、手が届かないことで価値が証明されるような人だったんだとも思うしさ。だから以蔵の涙は、武市さんが自分の思った通りの人だった、自分には手の届かない人だった、というある種満足の涙だったと思うんだ。自分のしてきたことへの悟りっていうか。それって一般的な岡田以蔵像から当初思い描いた以蔵の最期とは全然別なんだけど、「きっと健の以蔵は最期に、自分の人生を悟った人の、すごいくらいきれいな顔で微笑ってくれるだろう」という一点で予想どおりだったんで、ワタクシとっても満足でございます。
あ、ナツはさ。武市さんの冨さんと一緒だと思う。結局ふたりとも報われない片思いなんかしなければ幸せになれたんだけど、無駄な片思いに殉じた人生だから、切なくて愛しいってはなしなんだろね。

*1:cf.岡田以蔵辞世の句

*2:理屈でない情動を恋って言うんですよw。