映画MW☆これってJUNEだよね(・∀・)

「金曜日はネタがないなあ」と思っていたら、korohitiさんがMWの感想をあげてて「そういえば、これってJUNEだよなー、と思ってたんだっけ」ということで今さらですが。ちなみに時期外れなKKさん追悼エントリだったりもします(笑。
あ、えーと。ネタばれありなんで畳みます。




手塚治虫が発表当時に社会問題にまでなっていた少年愛ブーム(新聞でとりあげられたりとかしてたんだよw)に張り合って描いたというわりに先生分かってないなあ、と思わせられたのは、漫画のMWって関係性としての同性愛を描いてるだけで、少女漫画の少年愛とは別物なんだよね。その点はまあ、連載開始当時雑誌JUNEは創刊してなくて、JUNEとか少年愛とかの文学的本質(w)について語られることはなかったのだから分かんなくても仕方がないと思うし、そもそもこのジャンルの先駆けとされる竹宮惠子の作家性からして、JUNEというよりはもっとエンタメよりで幼児的万能感の世界だと思うからしょうがないんだけど。その点では雑誌としてのJUNEとは距離を置いてた萩尾望都とかの方が、他者との関係性で自己容認の道を探るようなところがJUNEだなあと思うんだけど。
私はイマドキのBLとかいわゆるヤオイとかはよく知らないので印象のみでものを言いますけど、BLとかが「ボクとキミ」の世界だとしたら、JUNEって「自己と自己を確認するための他者」の世界だから、厳密にいうとJUNEには「自分」しかいないんだよね。自分で自分の価値は測れないから、他人に愛されることで自分の価値を測る、他者による自己確認のはなしというのがJUNEなんだと思います。
という点で、「映画MWってJUNEだよね(・∀・)」と思うんだわ(笑。
この映画における結城のモチベーションって「自分はMWによって不幸になった」っていうことで、賀来への執着って、賀来が自分と同じようにMWによって不幸になった、自分と同じように不幸なのは賀来だけだという認識だと思うのね。その上で結城のレゾンデートルはMWへの復讐なんだから、結城の最重要問題が賀来なのはまあ当然だよね。結城にとってのMWの罪って、「賀来と自分を不幸にしたこと」で自分だけならまた違ったんじゃないかな。まあ「もはやMWよりあんたの方が、よっぽど賀来を不幸にしてるよ!」というのは突っ込むべきところだとは思うけど(笑。
一方で結城の思い込みに絡めとられているのが賀来なんだけど、結城のモチベーションが“自分達を不幸にしたMWへの復讐”なのに対し、賀来の苦悩は“復讐を続けることで結城が不幸になる(=罪を重ねることで地獄へ堕ちる)"ことなんだと思う。結城が賀来を海に突き落としたシーンって、賀来が自分の不幸に納得することが許せなくて結城がかんしゃくを起こしたシーンだと私は思ったのね。そこで「玩具を壊した」というのはまさに、子供がかんしゃく起こして玩具を投げたら壊れちゃった、というそういう実感だったんだろうなあ、と。
んで賀来が結城を切り捨ててしまえないのは、結城が自分だから自殺の覚悟を決められない、ってことだと思うのね。あのシーンの後で賀来が通報するのは自殺の覚悟を決める、結城(自分たち)が生き続けることの方が、結城(自分たち)が死ぬことよりもっと不幸だと決心した、ってことなんだと思った。
このふたりの関係って結城の方が上に見えて、その実選択権は賀来にあったはずなんだよね。だって結城はMWで死んじゃうけど賀来はそうじゃないんだし、賀来には「MWのことは忘れて幸せになる」という道があるんだから。まあ結城がそんなこと許すわけない、それくらいなら殺してやる、と思うだろうと思うけどさ(笑。
それでも賀来が結城を切り捨てられなかったのは、結城が自分たちの不幸に怒っているからだと分かってたからだと思うけど、まあ未来のある賀来が先のない結城の未来(=罪を重ねる)ことを悩んでるのに対し、未来のない結城が先のある賀来の過去の不幸を断罪するために罪を重ねるっていう辺りが、こいつら救われねーなあ、とは思った。
賀来は自分が死ぬことで結城を殺したんだよね。それでも結城の体はまだ生きてるんだけど、それって結城にとってすごい不幸なことなんじゃないのかなあ。きっと結城はそんなこと気にしてないと思うけど、自分がものすごく不幸だってことに気付かない不幸ってのもあるよね、と思う。