じゃあなんで戦うの?

これは26日のエントリ「おまえの言うことは正しい。だが」のコメント欄のやり取りの後半、白倉さん本人に言及した部分の追加です。
コメント欄のやり取りならコメント欄で続けろというはなしですが、仕切り直さないと語れない部分もあるし、第一これ以上コメント欄を伸ばしたくないし(-_-;。
ソースを示せない他人の腹の憶測をネットにあげるのも、コメント欄のやりとりを元にはなしをまとめるのも大人げないなあ、と思いつつ、自分の白倉観をまとめきれないままにここに置いていくのは我慢がならないのでやはり。なんでこう大人げないんだろう、自分……(((  )|壁。
……というわけで、該当のやり取りの後半に興味のある方だけ御覧下さい。


黒猫亭さんの最後のコメントで「これには反論できないなあ」と思ったのは

大人になった自分には世界のために戦えないけど、若者なら戦えるという物語を今描いてしまうと、自分以外の他人が戦えって話になっちゃって、それが今の白倉Pには引っ懸かってるんじゃないかと思うんですよ。それって、自分の思惑で子どもに戦いを強制する「信用出来ない大人」の姿勢まんまじゃないですか (笑)。

の下りなんですね。555以降の白倉さんがなぜちゃんと言語化できるわけでもない大人にこだわりだしたのか分からなかったけど、これなら腑に落ちると思ったんで。

「価値はやり遂げたことだけ」みたいに言われているけど、響鬼終盤のプロデュースは555以降の白倉さんの仕事としては普通にできが良いけどなあ、と私は思っていて、それは高寺フォーマットにのっとって作った結果、“未熟な大人”ではあるかも知れないけれど、ちゃんと大人を描けていると思うからなんですね。真司にしても巧にしても取り上げる時に“青年”と呼んでいるけどその内実は“少年”と呼んだ方がしっくりきて、一方トドロキやイブキというのは確かに未熟ではあるんですけど、師匠の仕事を引き継いだり弟子を育てたり、といった“大人”の役目をちゃんとこなしている。それは少なくとも“青年”の姿で、未熟ななりに大人の姿だと思うんです。
だけど自分の仕事として“大人”を肯定的に描こうとすると、白倉さんのはなしは急に具体性を失う。かろうじて555の花形やカブトの加賀美陸のように“父親”という属性で描くとそれなりにリアルにはなるんですが。

「カブトの責任」で天道のことを「大人目線の主人公を描こうとして手に余った結果いつもの主人公に戻っちゃった、って感じ」と書いているけど、じゃあ天道は大人のはずだったのかといえば、最初から“大人視点”ではあっても大人ではないつもりだったと私は思っていて、その辺は見せ方の問題で天道は確かに完全超人だったけど、その正しさの拠り所を“おばあちゃんの教え”に求めるのは見え方として幼すぎるだろう、という理由。そもそも“俺様”という属性は、個人の心性としてもかなり幼いものだと思うんで、初期の天道なら大人だったというのは違うと思うんですね。まあ天道の“俺様”という属性は「よく白倉さん思い付いたなあ」と思うくらいに年寄りには理解に苦しむもので、私も見せられたものを理解することはできても、「どうするか考えろ」って言われたら苦しいなあ、と思うんです。だから白倉さん的にはもうちょっと違うイメージだったんだけど、米村さんの造形に乗ったったんじゃないかと思ってるんですが。

だからカブトをどの程度大人よりのはなしにするつもりだったのかは分からないんですが、ヒーローの成熟についてはここ数年の白倉さんはなにかの強迫観念にでも取り憑かれているのかしらと思うくらいに気にしているんで、ある種の大人性みたいなものは入れ込まないと、と思っていたんだと思うんですよ。ただだったらなんで米村さんを連れてきたんだ、ってはなしで、あの人は年齢的には白倉さんと同じくらいだったはずだから完全におっさんの世代だけど、書くものは20代だと言われても納得できるくらい若者視点だし、白倉さんみたいにそれに対するコンプレックスもない(少なくとも、書いたものからは己の若さを恥じる様子は伺えない)人なのにそんなもん描けるわけないじゃん、ってはなしで、大人性を描くことを考え出すと、白倉さんは「まさかなんにも分からないんだろうか」と思ってしまうくらいにやることを外してると思うんです。

言葉足らずで伝わらなかったようですが、響鬼劇場版公式で視聴者に反論したことを取り上げたのはそれが視聴者に求める態度の例として擁護したわけじゃなく、高寺氏の中傷だけを削除したのが大人の侠気を目指した態度だとしても、受け手にまで理想を求めるそれは青臭い理想主義だと思うんですね。それは青臭いかも知れないけど、それをイタイと言ってしまうのはあんまりひどいんじゃないかと私は思うんです。

同じように平成ライダーにおける個人のぶつかり合いも、確かに大人から見れば愚かしくて見るに耐えないものかも知れないけれど、その中で自分の都合をこえて他人の負の感情と向かい合うことには、分別がないからこそ利他的になれる美しさがあると思うんですね。それを私はいじらしいとか痛々しいと呼ぶわけで、若さは身勝手なイタイだけのものではないし、だからこそ平成ライダーはヒットしたんだと思うんです。

そもそも平成ライダーチームで青臭いのは白倉さんだけじゃないわけで、敏樹さんの書くものが青臭いのはもちろん、田崎さんをはじめとした演出陣もその描き出すものは十二分に青臭かったわけです。「Sh15uya」や「ガメラ」といった作品があるだけ分かりやすいので例にあげますが、田崎さんなんかは資質の面では白倉さん以上に青臭いと思うし、長石監督なんかも本人が青臭いか否かはともかく、少なくともそれを美しいものだと思うからああ美しく撮り続けているんだろうから、平成ライダー世界は白倉さんだけのせいでイタイのでもなければ、白倉さんだけのおかげで美しいのでもないわけです。

その辺を踏まえて白倉さんの最近の仕事を見ると、「大人にならなきゃ」という強迫観念に取り憑かれて無分別な背伸びを繰り返しているように見えちゃうんですね。自分がもう大人だから、戦いを子供に押し付けて世界にふんぞり返っているのは気が咎める。だからといって大人の文脈で戦う理由が見つけられないなら、その瞬間子供に戻って世界を組み立てても良いじゃないですか。自分と主人公がイコールでなければならないなんて理屈はどこにもないけれど、少なくとも子供の目線でなら戦う理由にリアリティを見つけることができた、そのリアリティに伴う痛みこそが平成ライダーの肝だったわけで、大人目線でのリアリティを見つけられないままに自己逡巡を繰り返すのは、ある意味高寺さんよりたちの悪いライダーコンテンツの私物化だと思うのです。

子供だからイタイのでも大人だから頼りになるのでもない。「大人だって世界を護るために戦うこともあるわけだし、それは若者の戦いと比べて意味がないのか、そんなことはないだろう、大人だ子どもだと差別すること自体がやっぱりおかしい、そういう葛藤があって、それでもそのリアルを掴みあぐねているのが現状なのかな、と思うんですね。」という黒猫亭さんが推測した白倉さんの現状に、答えはちゃんと含まれていると思うんですね。一人の人間が世界を守らなければと思う時に、大人だから子供だからは関係ないと思うんです。*1
そしてライダーの受け手は現に子供なんだから世界を大人に任せなさいなんて言う必要もない。子供に手を貸す大人を肯定的に描くことで、大人の正しさを探る道はあるじゃないですか。
愚直ですらある白倉さんの「良き大人」への規範意識は、うちなる幼児性へのコンプレックスの裏返しに見えてしまうんですね。平成ライダーの痛さが大人をはじめとする他者拒絶の痛さだというのはそう思いますが、他者否定のはなしから脱却したいなら、最初に自分を肯定しましょうよ。

*1:その意味でカブトでほんとにバカだと思うのは、成長を描くことがいくらでもできた加賀美でその描写をしなかったこと。加賀美に限らず白倉さんの現状でなら、大人を描くことより成長を描くことの方がイメージしやすいと思うんですが。