失恋ショコラティエ◆ヒドイヒトタチ

んっとさー。爽太やえれながなんでああなのかというのなら、あれは爽太やえれなの気持ちが恋じゃないからだと思うんだよね。
最初のバレンタインからそうだったのかどうかは知らないけど、爽太が失恋してフランスに行った後の紗絵子さんへの気持ちって、あれは信仰だと思う。ふられたと思った時点で紗絵子さんを神様にしちゃったから、後は神様の心にかなう生き方を続ける=素敵なチョコレートを作り続けるだけで、現実の紗絵子さんは見てないんだよ。だって神様からはリアクションがないのが当たり前だもん。
信仰は善い生き方をする指針にするだけのもので、それが深ければそういう生き方をする拠り所になるけど、神様は責めたりつっこんだりしないよね。神様の言うことしか気にしなければ、誰にも傷つけられることはない。だから神様にしちゃった方が楽なんだよ。生身の人間に気持ちをぶつけられれば、自分が傷つかないとも限らないもん。
えれなが倉科との仕事にびびったのってそういうことだと思う。勝手に崇めてる神様は自分を評価しないけど、現実の倉科にがっかりされたらつらいもんね。
なんでそんなかって言うのなら、最初に失恋したことで愛されることをあきらめちゃったんだろうね。でもそもそもそのあきらめ自体が他人を馬鹿にしてるっつーか、あんたを好きな人間の立場はどーなる、ってはなしだよ。
以前シュアリー・サムデイの感想で「自分を好きになってもらう必要がないくらい、誰かを好きになる気持ちってある」と書いたことがあるけど、それって一途で純な思いかも知れないけど、相手をひとりの人間として見たら、本気で関わってないってことだと思う。ほんとに神様な人なんかいないんだから、勝手に生き方の指針にされても困っちゃうっつーの。高潔に生きるのは勝手だけど、かっこつけてられないくらい好きになってもらうっつーのも、人として喜ばしいことだと思うんだけどねw。