君は正義?−仮面ライダーカブトにおける正義の存在−

2話まで終わった仮面ライダーカブト。導入部とあって戦闘シーンの仕掛けもすごいし提示された世界観も魅力的。好みのはなしなのだがなんかすっきりしないというか、いやーな感じがするのはなぜだろう、と考えてみた。
ようやくオープンしたカブト東映公式のトップページには、以前「俺が正義」のキャプションも華々しく、ゼクトルーパーの集団の前に立つカブトの図が置いてあった。ヒーロー番組の主人公が正義の味方なのは当然だが、そういう善悪二元論を否定する作品を作ってきた白倉Pの作品でそんなこと言われても、額面どおりにとれるわけがない。それでもあえて“正義”という言葉を出してきた以上、今作は“正義”について考える作品になるんだろう、とは思っていた。そして現時点でカブトについて考える時、“正義”という言葉にひっかかっている私はまんまと白倉Pの手に落ちているのかも知れない。
例えば龍騎の主人公真司は「良い人」だ。(作中でも「俺は間違ったことは言ってない」みたいな発言がある。)555の主人公巧は「良い人」ではないかも知れないが、「悪い人じゃない」という評価は随所で出てくる。いわゆる「良いやつ」って感じだろう。それでカブトの主人公、天道総司は「良い人」だろうか?
「悪い人」でないのは間違いない。そのことを示すためにわざわざ、戦闘中にいかにもクズっぽい一般人を助けるシーンや、露店の売り子に声をかけられずにいるひよりに助け舟を出すシーンが置いてあるのだろう。けれど店内でタバコを吸う客に水をかけるに至って、彼を「良い人」に分類するのはためらいを覚える。
「子供が煙たがっているから」火を消せ、という彼の主張は正しい。しかし行き過ぎた方法論で実行される正義は本当に正義だろうか。子供のために客を叩き出す行為を、制作者は“善行”として描写したのだろうか。その辺の判断をつけあぐねてしまうことが、私をカブトという作品に乗り切れずにいさせている。天道総司が“正しい”ことは分かるが、“良い”のかどうかの判断がつかないのだ。
そしてそれが私の好みによるものか、作品で「正しいが必ずしも良くはない」と描写されているからかが分からない。
天道はニートか否かというのが話題になっているが、彼がいわゆる“ニート”の定義に当てはまるか否かはともかく、制作者は彼に“ニート”という属性を“社会性の欠如”の記号として与えていると思う。そうでないなら、総司大好きの妹樹花に、働かず学校にも行かないことをわざわざ指摘させるわけがない。カブトにはもう一人“コミュニケーション不全”という“社会性の欠如”の記号を与えられたひよりというキャラがいる。他人とうまく関われない性格を描写されたキャラクターはザラにいるが、公式サイトに“コミュニケーション不全”と書かれたキャラは珍しい。
カブト世界には一方にZECTという組織がある。
“ワーム”という大きな脅威に対して味方の大きな犠牲を払いながら戦う彼等もまた、“正義”であるようには描写されていない。
犠牲の描写があるので勘違いしそうになるが、現時点でZECTを象徴する田所や岬から、犠牲を悼む言葉は出ていない。
現時点で加賀美と天道の関係は、クウガにおける一条と五代の関係のようなものになりそうに見えるが、クウガにおいて一条が警察もまた正義であることを象徴したのに対し、加賀美はZECTを象徴するにはいかにも小者過ぎ、下手すれば天道もろとも抹殺されそうな勢いだ。
独善が善でないように社会正義もまた正義とは別物だ。
正義という言葉の持つうさんくささはうさんくささとして、2話で1epのライダーシリーズは本来の第1話終了である2話の終わりまでに、主人公なりの正義、彼の戦う理由を描いていた。
それが見えてこないことで、私にこのはなしのキャラクターに感情移入できずにいる。
今までに描かれたことから、独善と善、社会正義と正義、社会(組織)と個人、みたいなことがテーマに絡んでくるのかと漠然と感じてはいるが、正直よくできた戦闘シーンや世界設定がもったいない出来だと感じはじめている。
今後キャラクターが描かれることで改善されるのを望むばかりだ。