正月早々田崎監督を考えてみたり

2007年初視聴DVDはこれ。買った時はホリランのマイブームが去っていなかったので、特典ディスクだけ見て放ってあったのを最近の平成ライダーの少年性に関わるやりとりで、田崎監督の作家性について考えた流れで久しぶりに視聴。見たのは昨日ですがまとまらなかったんで今頃アップしますが、平成ライダーとの関連は私が基本田崎さんをライダーのメイン監督の一人ととらえているせいなんで、頭がそっち行ってるんだと思ってゆるく読んで下され。
実際そんなに深く考えてません。←小声

しかしこの初回限定版まだ買えるのかどうか分かりませんが、購買意欲をそそらないというか企画が不満なのは確か。田崎監督のコメンタリーくらいは最低限聞けるようにしておいて欲しかったし、夏帆の写真集撮影の密着なんてもんを入れられても……。角川発行の写真集だけに大人の事情はあるんでしょうが、映画撮影シーンも含めてこの子の撮影シーンって女から見ると……。男の子の撮影シーンに比べていかにもボーダーラインが低そうに見えるシーンを、入れない方が良いんじゃないかとすら思わない辺り気にもしてないんだろうなあ、ってところが。まだ子役レベルの年齢の美少女アイドルなんだから、存在感が第一義なんだといわれればそうなんでしょうが。
田崎監督の「ガメラ映画の作り方」とか、昭和ガメラ平成ガメラを含めた徹底検証とかは面白いんだけど。

本編は公開時に2回見たとはいえ、改めて見ると見落としてたこともありましたし、そもそも今回は田崎監督の作家性を確認する意味で見たのでどうしても視線はそっちに行きました。ちなみに公開時の感想はこちらこちら
まあガメラにしてもライダー劇場版にしても企画自体が求める描写というのはあるでしょうからそれをストレートに田崎監督の作家性と見て良いのかというのはあるし、一番自由度が高かったと思われる「Sh15uya」がああいうはなしなんで悩んでしまう面はあるんですが、少年というものをすごく肯定的に見ている気がしました。もともとロリコンといわれるほど女の子の熱演の訴求力を重視してる人だけに、「若さは美しい」が基本なんだろうし。
自分が親の世代だから公開時は孝介視点で見ちゃったんで分かんなかったけど、「透を危険な目に遭わせるわけに行かない」という気持ちの描写は孝介を描く上の必然だったとしても、透がトトに会うことにこだわったのは、なによりも「トトに石を返す必要があったから」なんですよね。その辺私には麻衣に石が渡った成り行き自体あんまし意味のある気がしてなかったんで流して見ていたんだけど、あれは麻衣の試練に対して弟レベルだった透ができるだけのことをしてあげて、その結果成功したんだから早く返してもらわないと、って理屈だったんですね。つーかそんなもん、麻衣のお母さんの電話を受けて駅に立つ流れを見れば分かるのに私はよー。
ジーダスが暴れている名古屋に行くのは危ない、石を渡してトトが自爆したら誰より透がつらい、そんな思いをさせたくない、というのはガメラの自爆を目の当たりにした孝介だからこその強い気持ちだろうけど、それは世界がどうなろうとそこはガメラに頑張ってもらうことにして、おまえは自分の安全を考えなさい、という理屈だから理は完全に透の方にある。それを認めるのは大人対子供、保護者対被保護者の目で見てると私レベルのイタイ大人でも強い拒否感があるんだけど、「ああ。正しいのは透たちの方なんだ」とすんなり胸に落ちたのは、透と孝介が押し問答をするシーンで、廃墟になった名古屋の町の粉塵の向こうに現れた石丸兄弟のヒーローっぽさのせいなんですわ。
孝介が「分かった。だが父さんも一緒に行く」というあのシーンは、少年の理想が大人の現実に勝利する場面なんだよね。だから。

ガメラを見て強く思い出すのは555劇場版の「パラダイス・ロスト」で、それはぶっちゃけ555の巧が透たちとかわんないがきんちょだったせいなんだけど(w)、平成ライダーがあんなふうなのは少年たちが理想の体現者だからで、しかしそれを作る中心である白倉さんがそれこそ一元的に「俺が正義」って言える人じゃないから、「これが理想って言っちゃって良いのかなあ」と迷ってるのを見せられるせいで危うく見えちゃうせいじゃないのかなあ、と。
たぶん「俺が正義」と言い切っちゃうはなしなら、「それは違うだろ」と思う人は気にしなくて済むんだよね。迷っているのが見えるからこそ、いろんな人が気にしてしまう。
「パラダイス・ロスト」の巧は本編ほど自己否定要素が強くないせいで、今見ると「あー。俺様じゃん。これ」と見えるんですが、“俺様”というのはそれ自体、若さを肯定的に描く形なのかも、と思いました。