超電王◆居場所を見つけた白倉ライダー

ふだんROMしてる遊さんとこで、良太郎を掘り下げてるテキスト見てたら溝口君と健の良太郎の違いが見えてきたってエントリ読んだら、なんか関係ないこと思い出してきたぞ。
そんなわけで、ずっとあげそびれてた白倉ライダー考察とは関係あるようなないような電王語り。ついでに健にも関係あったりなかったり。
私の佐藤健という役者への評価は、長く自分の興味の中心だった白倉ライダーとしての野上良太郎という役を把握して演じた功績に対するものだっていうのは今まで何度も語ったとおりだけど、今も電王シリーズが続いてる中で、健がやるのが当たり前だったさら電の時はともかく、ぶっちゃけスケジュール的に拘束が難しくなってしまった佐藤健を出さずに済ませるために“子供にする”という手段を採ってしまった今となっては無理に出さなくって良いじゃんと思っているのは、電王ファンではあっても健のファンでもある身として、超電王シリーズの良太郎を健で見たいとも思わないからです。だって電王は良太郎自身の物語だけど、超電王ってそうじゃないでしょ?
主役じゃないってはなしじゃないよ。私は脚本家の目から見た白倉伸一郎を具現化したものだっていう意味で、巧と良太郎を典型的な白倉ライダーだと思ってるけど、私がはまった白倉ライダーの肝って、主人公がこの世界に自分の居場所はないと思っている疎外感キャラだってとこなのね。555の巧が分かりやすいけど、オルフェノクである自分にこの世界の居場所はない。そんな自分の居場所が世界にあるとは思わないけど、戦うことで世界と繋がることができるのなら、というのが555の巧の物語だったとしたら、表面的には家族もいる普通のオトコノコだけど、その家族の記憶が抜け落ちていることを語る相手もいない、あり得ないほど不運な運命を受け入れるしかないと思っている良太郎も、世界に居場所はないと思っていたと思う。そんな良太郎が契約者の後悔に手を貸すことで、少しでも世界と繋がりたい、っていうのが電王の物語で、その上で便宜上“仲間”と呼んでいるけど心から気を許しているわけでもない、ある意味戦う手段でしかなかったようなタロズを心から仲間と認めていく。良太郎の世界を守るために彼等が身を捨てて戦うことで、結果的に彼等が良太郎の世界における自分の存在=居場所を手に入れた時、たとえ一緒の時間を過ごすことはもうなかったとしても、彼等仲間のいるこの世界にはすでに良太郎の居場所がある、というのが電王の最終回だったと思うんだ。白倉ライダーが主人公の孤独の物語だとしたら、伸ちゃんの言う「電王終わり」の時点で良太郎はもう白倉ライダーじゃないんだよね。さら電では彼等と切り離されることでギリギリ白倉ライダーになっていたけど、物語的にはユウの物語である鬼が島以降の良太郎のポジションは保護者。超電王って、良太郎たちの役割でいえば孤独を知る人たちが孤独な人に手を貸す物語だと思うけど、自分がかつて孤独だったことともう孤独でないことを知っている良太郎は役割としてもう“子供”じゃない。姿は子供でももう良太郎は“おじいちゃん”だから、電王の良太郎じゃない良太郎を無理に健で見なくてもなあ、というのが私の気分なわけです。溝口君には「旨味のない役でごめんね」って思うけど。←ナニサマw。
以前電王の最終回は白倉ライダー救済の物語だったってことを書いたけど、電王が迷える白倉ライダーの物語だったとしたら、超電王は電王をふまえた物語ではあっても電王としては白倉ライダーではないんだよね。そこでデンライナーチームという電王メンバーが、愛理と繋がりそうで繋がれない青年侑斗の片思いだったり、テディを失った幸太郎の寂しさを見守ることで電王らしさを保ってはいるけど。ついでにいうなら海東大樹っていう人は、たぶんディケイドで唯一“孤独”だった人だよな。海東の孤独は白倉ライダーの孤独じゃないけど。
そういうことを考えたら、以前伸ちゃんが言ってた「電王をライダーシリーズから切り離したコンテンツとして確立したい」、ってはなしも違う意味が見えてくるなあ、と。まあ伸ちゃんの発言はあくまで企画としてのものでしかないと思ってるけどさ。