龍馬伝/第34話「侍、長次郎」

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演出:真鍋 斎
1866年。龍馬31才、高杉晋作28才、桂小五郎33才、中岡29才、陸奥23才、弥太郎32才、長次郎29才(生年より単純計算)
うーんよく分からん。はなしは分かるんだけど、なんでこういうお芝居になってるのか意味分からん。
んっとさー。薩摩名義で船を買うんだけど、それを使う時には長州の了解を取る必要があるっていうのは、お金出してるのが長州なんだから当たり前だよね。長州から「自分達が船を買うことはできないから名前を貸してくれ」と言ったんだったらそういう条件をのむこともあるかも知れないけど、これはそもそも追いつめられた長州が、ヤケになって無茶しないこと第一の計画なんだから。まして仲介しただけの亀山社中が勝手に船使えるなんて条件誰が出したの? 先週言ってたっけ? でもはなしの勢いで「わしらも使って良いですか」「もちろん良いですよ」とか言ってたとしても、「そんなうまいはなしないでしょ」って普通に思うしさ。
亀山社中の台所が火の車だっていうのは、見ている私がつっこむくらいだからそりゃそうだろうって思うけど、だって多少ぼったくって利鞘を稼ぐ仕事がある一方で、利益を度外視してもまとめなきゃいけない仕事があるのって普通のことじゃん。亀山社中に取ってこの取り引きをまとめなきゃいけないのって分かりきったことだし、だったらそれって長次郎(大泉洋)が肝心のことを分かってなかったってだけのはなしじゃん。それを悲劇として描くんだったら、おめでたいオサムライサマたちの中で理想だけではやっていけないことを分かっているからこその悲劇とか、同じになったつもりでも、着眼点が侍になれない自分に絶望するとか、いっそ日本にいる限り身分の違いという意識から解放されないから外国に行きたがるとか、いろいろ見せ方ってあるじゃんと思うの。中学生日記みたいに気分で責め立てて、「あんなこという気じゃなかったのに」ってなんだよそれ。
脚本が気持ちの勢いだけで説得力皆無なのは2部からそうだったけど、はなしの中心(って言っちゃうよ)が武市さん(大森南朋)や以蔵(佐藤健)みたいな感情だけの人だった頃ならともかく、なんだかんだいって打算もあれば欲もある亀山社中とか、世の中分かった気でいる龍馬(福山雅治)とかだと、「こんなはなしになるわけないじゃん」って思うよそりゃあ。
どさくさ紛れに弥太郎(香川照之)にキックをかます後藤様(青木崇高)は面白かった。しかしそれ以外は……長州勢はかっこいいんだけどねえ。